飯田彩乃「透明なストレート」この人生に慕わしい短歌を得た

少年の妙と美

信号が青になるまで少年が投げ込む透明なストレート(飯田彩乃)

第二十七回(2016年)
歌壇賞
「微笑みに似る」より

「信号が青になるまで」たとえばグランドに、この光景を、<わたし>が見ていたものなのか。

あるいは、「信号が青になるまで」待つ<わたし>のそばで、もしくは反対側で、「少年が」シャドウピッチングでもしていたのか。

いずれであっても、わたくし式守に、この一首が眩しい。

<わたし>も含めたこの光景に、全身が、無限にたのしくなれる。

飯田彩乃

わたくし式守の歌歴に、飯田彩乃は、特別な存在である。

短歌を始めてみると、この世界も公募の新人賞なんてものがあって、そのようなタイトルを獲る人は、いったいどれだけ魅力的なのか、わくわくしてページを開いたのが、この「微笑みに似る」だった。

たとえば、高校生になって、ようやく本格的に野球を始めてみたはいいが、地方予選の、それも一回戦で敗退してしまう。
それを、テレビでは、甲子園で、ゆくゆくはプロになる球児が、自分には踏み込めない領域のプレーをしている、なんて構図と言ったらいいか。

飯田彩乃は、既に50を過ぎていたわたくし式守に、超高校球児だったわけだ。

透明なストレート

飯田彩乃「透明なストレート」この人生に慕わしい短歌を得た

信号が青になるまで少年が投げ込む透明なストレート(飯田彩乃)

「透明なストレート」なる表現で、50を過ぎた式守操に、それは目に見えないが、「少年」の見事にうねる一球が目の前をかすめる体感を得られた。

短歌で全身が無限にたのしくなれる不思議に息をのんだ。

歌人とはなべてそうである認識が今でこそアタリマエになったが、ただ目撃しただけの場面が、詩に変容しているではないか。

1回戦敗退の、それも補欠が、将来はプロに進む人のプレーに、やんやと拍手をしたものだ。

この快球は、今も、胸に躍っている。

日常に何かを育てる川

飯田彩乃「透明なストレート」この人生に慕わしい短歌を得た

輝きをすこし遅れて連れてくる川の蛇行は微笑みに似る(飯田彩乃)

タイトルは、この一首から採られた。

そして、次の一首もまた、流れる「川」がある。

水面にくまなく映してゐる影を横切りながら川は流れて(飯田彩乃)

地上に建物があって、地上を、時間が進んでいる。
「影を横切りながら川は流れ」ることで、この世界は、時が、たしかに進んでいるのを知った。

<わたし>は、日常の歩行に、これをよりよくする観照を怠らないのである。

川縁を歩くあなたがそこここに咲く花の名でわたしを呼んだ(飯田彩乃)

「あなた」もそうらしい。

「そこここに咲く花」であれば、「花」は、珍しくもない存在であろうに、〇だよ、○○だよ、お、こんどは△がいたよ、そんな具合か。

<わたし>は、その人生の歩行に、得難い人と足跡を並べておいでのようだ。

次のような一首は、50を過ぎた1回戦ボーイに、とてものこと生み出せない短歌であるを悟って、目を丸くすることしかできなかった。

初秋の陽を揺らしつつ川面(かはも)とふ空気の底をみづ流れゆく(飯田彩乃)

<わたし>は、「川」の「影」や「陽」に、日々の更新を確認して、<わたし>の日常の行状は、それを何といったらいいのか、慕わしさといったものを育てている。

そこも魅力的(まことに魅力的)だった。

「仕事場」と「あなた」

飯田彩乃「透明なストレート」この人生に慕わしい短歌を得た

真夜中に目を見ひらけば対岸のあなたから打ち寄せる寝息よ(飯田彩乃)

仕事場にひとり残ればコピー機は浅瀬の鷺のごとく鳴きだす(同)

人は外界に二つの膜がある。

この「微笑みに似る」では、ありていに言えば、
「あなた」寄りの膜、
「仕事場」寄りの膜。

そして、次の一首。

異なつた曲を奏でるわたしたちの拍が合ふ日を休日と呼ぶ(飯田彩乃)

短歌の中高年ニューカマーは、この一首には、膝を屈して敬った。

私的な感情に過ぎないところに公的な不合理があって、されど、公的な不合理にうかつではない。

飯田彩乃なる歌人のすばらしい資質として、これは、数えられていいのものではないか。

「仕事場」によって、「あなた」を遠くしてしまう人がいる。
「あなた」寄りの膜さえも消してしまう人生が、世間を見まわせば、少なくなくあるではないか。

わたしは、飯田彩乃の「微笑みに似る」において、短歌とは、人の、たとえばこのようにすばらしい資質を滲出できることを教えられたのである。

この人生に慕わしい短歌を得た

飯田彩乃「透明なストレート」この人生に慕わしい短歌を得た

既に引いた一首を、ここで、改めて引く。

水面にくまなく映してゐる影を横切りながら川は流れて(飯田彩乃)

地上を時が進んでいる

わたくし式守は、50を過ぎて、これまでの人生をやり直したいと短歌を選んだが、短歌の道で助走をつけるのにふさわしい連作を得たわけだ。

事を始めれば志と違ってくるのは人の常であるが、わたくし式守もまた、その常を避けられなかった。
元々が元々だ。

残された時間と過ぎた時間に骨を噛むことを知るのである。

そんな時に、わたくし式守は、「微笑みに似る」を読み返す。

スカートの裾をしづかに蹴り上げて向かふ927(きゆうにいなな)会議室(飯田彩乃)

「927会議室」なんて会議室があるのである。
そんな「仕事場」ともなれば、ここは、大きな機構があることが知れる。

大きな機構の、寸秒の弛みも許されない局面で、「スカートの裾をしづかに蹴り上げ」るアクションを自身に課す「仕事場」に身を置いて、「あなた」との時間に首を延べる。

歌の道でいかにプロに手が届くからとて日和のいい人生ばかりではないのである。

されど、「微笑みに似る」は、よく通る道に、それはゆくりなくであったとしても、影の映りに、陽に、こころの具合が和やかにこぼれる人生のあるを、この式守の心耳に届けた。

慕わしい

短歌を始めた当時よりも、今は、少しすれっからしになったきらいがあるが、飯田彩乃の「微笑みに似る」は、今でも、わたしに眩しく、魅力は、まったく褪せていない。

わたしには、超高校球児として、甲子園に出場することなど夢のまた夢の身なのに、「微笑みに似る」を読み返して、改めて素振りを始めることがある。

そして、再び打席に立つのである。……

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