
目 次
そこに青鷺がいた

わずかなる雨は湖面に波も立てず瀬の青鷺の瞑想日和(五十嵐順子)
KADOKAWA『短歌』
2015.9月号
「おれの杭」より
実在の「青鷺」が視界にある。
「湖面」は、「わずかなる雨」に「波も立」っていない、と。
青鷺である。……
が、あたかも一人の人間の、独慎を伴った瞑想に見えなくもない。
そこに亡き母はいた

亡き母が身をのり出して幾そたび見送りくれし駅舎の柵よ(五十嵐順子)
ながらみ書房『I miss you』
(無彩色)より
「駅舎の柵」に、「母」は、今はいない。
母の幻影があるばかりである。
この柵に、「幾そたび」と「身をのり出して」いた母だった。
唐突に家電
家の中の家電に、人は、綿密な注意を払わない。
家電は、人生に、影響を与えない。
家電に光線はない
では、光線は、家族の構成員にどうか。
親や子、兄姉、弟妹にはどうか。
湖面の青鷺だったらどうだろう。
家族には光線がある

行方の定まらなぬ光線を、家族において、見てしまうことがないか。
人は、家電と一体にならない。
家電の光線は、これを、光線と気がつかない。
が……、
気をつけて帰ってね――子は言えり空港に送って行きたるわれに(五十嵐順子)
同(駱駝の写真)より
きのうまで少女だったよ 成田まで見送りに行くやせがまんして(同)
同(同)より
こんどは、<わたし>が「母」である。
「帰って」も「子」はそこにいない。
しかし、こうは言えなないか。
「子」にとって、そこはまた、再び身を置くところである。
そこに、「気をつけて帰ってね」と。
だからこそ母に「気をつけて帰ってね」と。
「気をつけて帰って」ほしいそこはまだ、娘の、過去の地ではないのである。
きのうまで見えなかった光線
きのうまで少女だったよ 成田まで見送りに行くやせがまんして(五十嵐順子)
亡き母が身をのり出して幾そたび見送りくれし駅舎の柵よ(同)
こんなものは、世間に、いくらだってある場面である。
そう言ってよければ、物語としては、チープなきりとりなのである。
その筈なのである。
しかし……、
きのうまで
少女だった、と
光線がのびた
駅舎の柵に
幾そたびと
身をのり出した、と
光線が途絶えない
娘に泣く母と母に泣く娘
見わたせば、世界は、娘に泣く母と母に泣く娘がいるのである。
息づまるほどに互いを押し合いて葡萄一房ごとに一族(五十嵐順子)
ながらみ書房『連鎖』
(果)より
どの時代にもありふれた型として存在する母と娘が、時の経過に伴って、かなしい呼吸を余儀なくされる。
家族の位相に、生命が果てることなく生まれ継いでいることを観察すれば、家族に、親と子の血に、やはり光のあることを、「葡萄一房」が、迫るように説得する。
わずかなる雨は湖面に波も立てず瀬の青鷺の瞑想日和(五十嵐順子)
五十嵐順子の手による「青鷺の瞑想」に、わたくし式守が瞑想したことは、かくして劣化を待たない光磁気ディスクに記憶された。
リンク
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