
目 次
短歌は説明文ではないからである
冬物を出すたび一度はかぶりみる父の雪下ろし用目出し帽(五十嵐順子)
ながらみ書房
『Rain tree』
(グレタ・ガルボみたい)より
短歌は説明文ではいけない。
説明文では詩にならない。
その帽子がどんな帽子かただ説明されただけでは、詩的感興は、ついに生まれない。
正確無比に説明できたとしても、それは、説明上手なだけなのである。
ところが、説明文のようなスタイルなのに、これが、ちゃんと詩を覚えられることがある。
結論を急げば、それは、説明文ではないからである。
今回は、そのあたりのことを。
「私ではなく」
この連作の1首前に、次の一首がある。
グレタ・ガルボみたいですてきと言われしは私ではなく私の帽子(五十嵐順子)
「グレタ・ガルボみたいですてき」なのは、ピンポイントで、「帽子」だけだ、と。
だとしても、「グレタ・ガルボみたい」なのであれば、持ち主とすれば、わるい話でもないんじゃないか、とはならないらしいのである。
「私ではなく」がいい。
おもしろくなるもんだなあ
「冬物を出すたび一度はかぶりみる」

冬物を出すたび一度はかぶりみる父の雪下ろし用目出し帽(五十嵐順子)
この「帽(帽子)」に、たとえばこれこれこのような帽子なのよ的な表現は、どこにも見つからない。
1首目よりも直截的だ。
これでは説明文ではないのか。
説明文では詩にならないんじゃなかったんですか。
「冬物を出すたび一度はかぶりみる」がいい。
おもしろくなるもんだなあ
つまり説明文ではないのである
子の母も父の娘でありたいのだ
感想文であれば、こんな一文が、どこかに置かれようか。
捨てていないのだ。
捨てられないのだ。
一度だけとは言っていない。
一度だけだってすぐ脱いではいなかろう。
すなわち
説明文のようなスタイルでも、短歌において、詩に翻った。
堂々たる短歌の<わたし>の誕生である。
生きてきたこと/生きていること

短歌はまこと短い詩であるが、生きてきたこと、生きていることをありありと伝えられる詩型であることを、この一首で、改めて知る。
「一度はかぶりみる」ただこれだけの言葉一つで、このたしかな音色に、この世界の生命がそよぐ。
<わたし>の人生を貫く流路がそこにあれば、それは、説明も何もない。
すなわち表現である。