
目 次
やさしいひと時
しばらくは紅色のこる暮れの空このままに滅びゆくもよからう(一ノ関忠人)
KADOKAWA『短歌』
2016.2月号
「かぶ、だいこん」より

夕ぐれの時はよい時、
堀口大學
かぎりなくやさしいひと時。
夕ぐれ時、自然は人に安息をすすめるやうだ。
「夕ぐれの時はよい時」より
「滅びゆく」ことを、<わたし>は、まことに可としたのか。
した。
したと思う。
それほどこの「暮れの空」はやさしかったのだ、と思いたい。
いつしか滅びる身であれば、こんな空の下で、と。
<わたし>の、そのようなお姿だと、わたくし式守の目には映る。
一ノ関忠人氏に、この人生を、そのように閉じたいお気持ちがある、と。
現実感
ここでは深く踏み込まないが、一ノ関忠人氏に、「滅びる」ことは、余人より現実感がある話なのである。
(第3歌集『帰路』(2008年 北冬舎)の)後記によれば、一ノ関は2005年9月に悪性リンパ腫を発症、突然入院を命じられ長い療養生活を送ることになる。『帰路』はこの療養生活のあいだに作られた作品をまとめたものである。題名の『帰路』は、「此ノ生ノ帰路愈茫然タリ」という蘇東坡の詩から取られたもの。いつまでも往路と信じていたら、もう帰路を歩いていたという思いが籠められている。
橄欖追放 東郷雄二のウェブサイト
(註:( )内式守)
第53回 一ノ関忠人『帰路』より
『帰路』を入手していないので、孫引きになった非礼を、一ノ関忠人氏、東郷雄二氏に深くお詫び申し上げます。
行くことは帰ること。
生きることは滅びること。
希死念慮ではない/むしろその逆
「滅びゆく」ことを、<わたし>は、まことに可としたのであろう、と。
「滅びゆく」のであれば、まさにいまここがいい、と。
それは、しかし、希死念慮ではなかろう。むしろその逆か。
「滅びゆく」のであれば、まさにいまここがいい、と思えるほどに、この空は、美しかったのではないか。
あ、いや、それは、ただ視覚的なものではなかろう。
たとえば堀口大學「夕ぐれの時はよい時」の「やさしい」がごとくに。
<わたし>に、その身の内の感激あるを、早々と帰宅するのは、一ノ関忠人に、物足りなかった。
一ノ関忠人なる<わたし>の内に呼び覚ますべき何かがあって
やさしい空の奥は何を呼ぶ
改めて読み返す。
しばらくは紅色のこる暮れの空このままに滅びゆくもよからう(一ノ関忠人)

人はいつしか死ぬが
と、死を感知することは、死よりも生を呼び出すために、この身の外界の働きかけがあるのではないのか。
地上に目を向けて、「紅色のこる暮れの空」を見ないでおく、というのもまたよかろう。
そのように生涯を終える人はいる。少なくない。
されど、「紅色のこる暮れの空」に、この身をすっぽりと包んでみる。
そういう人もいる。少なくない。
残された人生への、それは、優雅でかつ気品のある瞬間ではないのか。
このままに滅びゆくもよからう
この下句は、生れるべくして生まれた下句ではないだろうか。
ふだんは、やわかこのままに、とのおもいで生きてはいても
新たに生命を獲得した
ここで、改めて読み返す。
これで最後だ。
しばらくは紅色のこる暮れの空このままに滅びゆくもよからう(一ノ関忠人)
なんていい歌なんだ
そこに立ち入ることご無礼であるのは百も承知であるが、「このままに」との措辞は、その人生に、見残したこと、聞き残したこと、まだまだおありだったからではないのか。
見残したこと
聞き残したこと
夢の名残り
たとえこのままに滅びたとしても、こんな「紅色のこる暮れの空」の下なのであれば、それも「よからう」と。
未完の人生を自分にゆるすほど、そこは、「しばらくは紅色のこる暮れの空」だった。
しかし
人生から降りてはいないのである、この<わたし>は。
日々の暮らしに、常、観照を怠ってはいないのだ、一ノ関忠人なる人生は。
そして
ここに
一ノ関忠人に、新しい選択肢が発見された。
「紅色のこる暮れの空」の下であれば、滅ぶこともまたあり、との。
その場合は、夢の途上で滅ぶもまた「よからう」との。
だが、それは、一ノ関忠人なる<わたし>を慰める、天の働き。
一ノ関忠人に、外界は、まだ生きよと
わたくし式守は、人生の、この美しい一首を、そのように読んだ。
生命は、日々、更新される。
それは新たな生命

リンク
「橄欖追放 東郷雄二のウェブサイト」は、歌歴の長い人には夙によく知られているサイトです。
短歌を始めたばかりの方がせっかく興味を持った現代短歌を採取するのに、このサイトは、必ずや役に立つかと。
東郷雄二氏は京都大学の名誉教授。フランス語学、言語学がご専門です。