
桜より梅
桜より深きところを問うてくる梅と思いぬまた逢いに来ぬ(細溝洋子)
ながらみ書房『短歌往来』
2026年4月号
「春の通路」より
またここの梅を見に来た、と。
梅というのは桜よりも人の深いところを刺す。何かが、その深いところで問われる。
梅には桜よりもそういうところがあるようだ。
と言って、桜に魅力がない、とは言っていない。桜は桜でもちろん美しい。
が、梅は、人に思索を促す力がないだろうか。
そして、ここにまた来た、という結句。
歌として、内容は、すこぶるシンプルだ。
もっとも歌というのは、だいたいは、そこにある景そのものはシンプルなのであるが。
また来たことが詠まれたこと。
それはシンプルではあるが、しかし……。
この歌が持つシンプルさの裏にある深みを探る。
梅が人を見ているのではないか
桜より深きところを問うてくる梅と思いぬまた逢いに来ぬ
改めて歌をよく読むと、作者が梅を見て何かしらを考えてはいようが、梅の側から作者の心の深部を問いかけているのである。
この構造は見落とせないことだ。
能動的に梅を鑑賞しているつもりが、実は、梅に見透かされているのかも知れない。
自分の生き方や内面を。
まこと静かに審判されている。
この歌には、主客の逆転がもたらす緊張感が、ひっそりと潜んでいる。
と、言えないか。
「また逢いに来ぬ」の「ぬ」の切実さ
「また来た」という事実のシンプルさにまず着目したが、結びの「逢いに来ぬ」の「ぬ」、この文法的なニュアンスを掘り下げてみると、シンプルさに厳粛さが帯びてくる。
単なる過去(〜した)ではないのだ。
とうとう来てしまった、なのではないか。
強い完了・確信のニュアンスが、適正な文法に沿って、歌に含まれているのだ。
人間は、自分の深いところを問われると分かっていても、少し恐れやためらいもあるのに、なのにそこに引き寄せられてしまうことがある。
またここに来たというまことにシンプルなアクションが詠まれたが、この結句には、自らの意志と抗い難さが混合していて、シンプルどころか、実は、ドラマ性が高いものだった。
と、言えないか。
「逢いに」それは擬人化
桜より深きところを問うてくる梅と思いぬまた逢いに来ぬ
「逢いに」と。擬人化だ。
時間が堆積している話なのだ。そして、ここには、歴とした再会のドラマがあるのである。
梅と作者との間に、既に、かつて問いかけられた歴史があるではないか。
前回来た時から今回来るまでの間に、作者の人生に、さまざまな出来事があったであろう。
また梅の季節を迎えて、作者の細溝洋子さんは、ご自分の意思でここに来たが、梅の方では、あれからどうなりました? と深いところを問うのである。
そう読めないか……?
人間の本質に切り込む

桜は春爛漫の暖かさの中で、満開の華やかさを視覚に訴える。
が、梅はどうよ、ということですよ。
梅はまだ肌寒い早春の空気の中で、冷徹な香りが、寒さとともにある花だ。
暖かく思考も弛緩する桜の季節とはもう根本のところが違うのである。
まだ身が引き締まる冬の寒さがあるところに毅然と咲く梅だからこそ、人間の深いところに、それはたとえば人間の本質というものに、刃のように切り込んでくるのではないのか。


