
目 次
疲れました
転任のひとにおつかれさまと言えば疲れましたとほほえみくれぬ(広坂早苗)
本阿弥書店『歌壇』
2017.6月号
「かきつばたの里」より
<わたし>は、学校の教師であろうか。「転任」なんて言い方であれば。
となると、ここは、学校の職員室か。あ、いや、廊下の立話なのかも知れないが。
<わたし>の「おつかれさま」が、社交辞令に過ぎなかったわけでもあるまいが、でも、あたりさわりのない言葉だったのである。
ところが、
「疲れました」と。
「ほほえみくれぬ」と。
お返事の「疲れました」に感情量が豊富であることを、作者の広阪早苗は、捨て置けなかった。だから歌にしたのだろうが、しかし、その感情のカテゴライズは、容易でない。
ということが読者に迫る下句になった。
「ほほえみくれ」たこと。
ほほえみ
感情を、ほほえみが明かす/あるいは、隠してしまう
ほほえみくれぬ

読み返す。
転任のひとにおつかれさまと言えば疲れましたとほほえみくれぬ(広坂早苗)
疲れたと口にしてほほえむことは、わたくし式守にも、覚えがないでもない。
世の中とはとかく不合理なものであるが、なぜ自分に、ここまでの不合理のお鉢がまわるのか、と。
ことに仕事の位相でこれはよくある。
学校の教師だろうが、何だろうが、仕事がたいへんでない筈がない。
それはいい。が、同じたいへんでも、耐える価値のあるたいへんと価値のないたいへんがあろう。
「転任のひと」にとってどうだった。
価値があったの?
あるいは、なかったの?
ほんとうにお疲れさまでした。
と、わたくし式守は、心から、まこと心から申し上げたい。
その「ほほえみ」に。
ほほえみに
どのような感情かよくわかるような、あるいはわからないような「ほほえみ」でも、その感情量がどれだけ豊富であるかは、働くこと長くあるほど察しはつく。
そのような「ほほえみ」を粗略にしない<わたし>のことも敬えようか
<わたし>は理解している

読み返すのもこれが最後だ。
転任のひとにおつかれさまと言えば疲れましたとほほえみくれぬ(広坂早苗)
「転任のひと」は、言わない約束になっていることを、あからさまに口にした。
<わたし>はそこに驚いた。
が、そうとも言わないではいられない仕事だったのだろう。
ということを、<わたし>も理解していることを補強したのが、この「ほほえみ」だったのだろう。
この一首は、送別のただただ一場面に過ぎないが、「転任のひと」と<わたし>の感情が、絶妙に交響していることに息をのむ。
送別とあれば、季節は今、春だろうか。
のどかな春の平和のうちに、のみこめない言葉をのみこんで、両名は、悲しい微笑を浮かべるしかできない時空を共有した。
短歌は文学であること/今さらながら
一首のスタイルであるが、どこかでいったん区切ることを、作者の広阪早苗は、選択しなかった。
こうも稠密な調べになったのは、それあってと思われる。
教師の方にはほんとうに頭が下がる。

この一首に、わたくし式守は、短歌はやはり、短歌史の区分を貫いて、そのスタイルがいかようであっても、人間が描かれるものだとの再確認をした。