服部真里子「触れたら狂ってしまう王冠」罪深くかなしいこと

キリストと<わたし>

キリストが湖(うみ)ゆく場面読みながら口つけている冷たいコーラ(服部真里子)

本阿弥書店『歌壇』
2017.12月号
「マクベスの正気」より

この湖(うみ)はガリラヤ湖だろうか。
読んでいるのは、福音書のいずれか、と思われるが、どうか。

かれには為すべきことがあった。

イエスは、このガリラヤ湖のほとりを、病める者、貧しき者にこそすすんで訪れていた。
安息日に働くことは、彼を好ましく思わない組織に、ますます異端視されることなど百も承知だった。

28 すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。

マタイによる福音書11

されど、群衆は、彼の、本来の目的を、病める者の、また貧しき者の同伴者たらん願いを、結局は、理解していなかった。
彼に、ユダヤを、ローマの手から救う主としてしか期待していなかったのである。民族主義運動のリーダーであることしか。
それは弟子たちもまた、であった。

そんな孤独なイエスを、<わたし>は、「冷たいコーラ」で読んでいる。

<わたし>のあり方は、イエスの行跡をおもえば、ありていに言えば、不謹慎なんてことに着地してしまうのか。

されど

この「冷たいコーラ」は、ちょっと不謹慎かしらね、なんて程度の話ではないのである。

なぜ?

服部真理子「触れたら狂ってしまう王冠」罪深くかなしいこと

サイダーとコーラ

若い女性の短歌に、サイダーを見たことが、何首かある。

青春期の困難に、女子であることの困難に、その恋愛の憂いに、それがあるがゆえに、サイダーの気泡は、わたしの目に眩しく映る。

なにもかも決めかねている日々ののち ぱしゅっとあける三ツ矢サイダー(野口あや子)

短歌研究社
『くびすじの欠片』
(愛なんて言う)より

今、ほんとうは、何をいちばん望んでいるのか、何をしなければいけないのか、ちゃんとわかっていても、経験が不足していることに加えて、慎重はただの臆病になってしまう。

サイダーが眩しければ眩しいほど、この人生に自信を得ることは、ますます遠のく。

野口あや子

わたくし式守に、野口あや子の、その人生の途上の毒の実を、負荷の軽い語彙で表現する姿勢は、いくら読み返しても褪せない魅力を覚えられる。

他にも

他にも「サイダー」の短歌は(もちろん)ありますが、他の実例は、ここに引く煩を避けます

しかし、この一首において、コーラは、そういうものとはまた異なる。
イエスの受難の前奏に、ただ俗悪な飲料水。


苦吟した痕跡が見えない、この一首に、服部真里子という歌人に、ほとほと頭が下がった。

このようにすっと罪障認識を打ち明ける歌を他に読んだことがなかったのである。

イエスかキリストか

キリストが湖(うみ)ゆく場面読みながら口つけている冷たいコーラ(服部真里子)

初句に「キリストが」とあるが、ここに、わたくし式守は、尽きない興味がある。

キリストであって、イエスでないわけだ。
たまたまキリストとしたのであっても、それはそれでよく、読者として、不満はない。

しかし、ここに、たとえば、あくまでたとえば、まことに恣意的ではあるが、「主イエスが」とすれば、定型に収まる。
ガリラヤの湖畔をゆく人の、この一首に、初句を、イエスと呼ぶか、キリストと呼ぶかで、<わたし>なる服部真里子の輪郭は、存外、大きく異なってくるように思えるのである。

高名な歌人の一首でも、アマチュアの投稿歌でも、その作品は、作者ご本人の、人生への心構えを、その一首を世に出すことの顔つきを明かす。
それは自然主義文学の作者と主人公の関係とは似て非なるものだ。

さて

ベースであるところの信仰上によるものか、短歌の表現上のテクニカルなものによるのか。
効果の衡量を経た上だったのか。

イエスだったとして

もっとも「イエスは」とはしまい。
「主イエスは」とか、「イエス様」とか、また、信徒であれば、他にもいくらでも候補があろうか。

イエスならイエスで、これもまた、読者として不満はない。

ただ、こう始められてしまうと、信徒でない者は、教会で、牧師の(服部真里子はプロテスタント)説教を聴いている空気を覚えないでもないか。

されど、洗礼をうけた信徒でもない者がナンであるが、ガリラヤの湖畔をゆく、ここにしてもうキリストとするのは、同時性というものを欠いている印象を持たないでもない。
非信徒の、これは、考え過ぎだろうか。

また、初句を、「主イエスは」などとしてしまうと、二句目以降の語彙の負荷のかかり具合と著しくバランスを欠く、という、こんどは、表現上の検証が要ることになる。

それと、そもそもイエスに主を冠することもまた、先の同時性うんぬんで言えば、ここではまだの段階か。
主を冠するのは、学問上は説がさまざまあろうが、イエスの死後、ペトロを中心とした原始キリスト教団の活動の過程を経ている。

なお

なお、ポーロのこと、また、「復活」と「三位一体」については、この稿では、踏み込みません。

やはりキリストか

となると、やはり「キリストは」になろうか。

「キリスト」は、現代は、はっきりとイエスキリストのことであって、イエスもキリストも同格と理解しても、その理解を問題視されることはあるまい。

そして、キリストを、「救世主」なる三字熟語のニュアンスで理解しても、やはり問題視されることはあるまい

されば、なおのこと、初句を「キリストが」とするのが、最適ということになろうか。

児童書は『キリスト』で出版されている。主人公を、始まりからキリストなる名の者として語られているのである。

残光による輪/罪か愛か/あなたとは

残光があなたの髪につくる輪の触れたら狂ってしまう王冠(服部真里子)

「同」より

わたくし式守に、この「あなた」はこうである、と特定することができなかった。

「王冠」に、二つのイメージが、拮抗した。

王冠

マクベスの王冠

イエスの王冠

この2つのイメージは統合可能だろうか

マクベスの王冠

服部真理子「触れたら狂ってしまう王冠」罪深くかなしいこと

残光があなたの髪につくる輪の触れたら狂ってしまう王冠(服部真里子)

マクベスは、王を、陰謀によって暗殺した。
王冠は、汚い手を使って奪い取ったものだ。そんな王冠を守り抜くために、マクベスは、罪にその身をますます穢す。

マクベスに、王となることを予言した魔女がいる。
マクベスを、王となるようにけしかけた妻がいる。

王冠などどれほどの実体か。残光による輪がごとき程度なのである。
しかし、この王冠のために、人が罪を生むことがあるのは、この世に珍しくもない。

「あなた」を、ここで、はっきりとマクベスである、とは言えまい。

が、<わたし>に、自分が魔女やマクベス夫人ではない、と断言する自信がない。あれば、これだけの連作をものせるわけがないではないか。

そして


残光による輪に手を触れてはならない。

罪深き王冠を崇めるようなまねはできない。

イエスの王冠

服部真理子「触れたら狂ってしまう王冠」罪深くかなしいこと

残光があなたの髪につくる輪の触れたら狂ってしまう王冠(服部真里子)

ゴルゴタの丘で、イエスが十字架に釘を打たれている姿は、異教徒でも容易にイメージできよう。

イエスは、荊冠を、頭にかぶせられている。

おお、王様、王様、
ローマ兵が侮辱する。騒ぎ立てる群衆。

イエスは神の子ではあっても、神ではない。あくまで人間である。
茨による痛みよりも、人一人に、こんなむごい仕打ちがあろうか。

しかし、現代で、イエスを裏切った弟子たちの、ひいては人間たちの罪の、それは、身代わりの象徴である。
裏切った弟子は、なにもユダ一人ではないのである。

そして


絶対的な愛の象徴に手を触れてはならない。

罪あるこの手で触れていいものではない。

服部真里子

服部真里子は、たかだか王冠のために罪をくりかえすマクベスを、信仰するイエスであればかくあらむとかなしむ。
冷たいコーラは大目に見てももらえようが、マクベスの罪が救済されるには、絶対的な愛しか通用しないのである。

そして
また

イエスの受難の前奏に、冷たいコーラに口をつけることにさえ罪障感を抱いて、服部真里子は、聖なる冠を、手で触れることはできなかった。
どうしてもできなかった。

コーラはただのコーラではない

私はこれからのちもこのバイブルを永く持つて、物悲しく併し楽しげな日暮など声高く朗読したりすることであらう。ある日には優しい友等とともに自分の過去を悲しげに語り明すことだらう。どれだけ夥しく此聖書を接吻することだらう。

わがなやみの日

みかほを蔽ひたまふなかれ

われは糧をくらふごとく灰をくらひ

わが飲みものに涙をまじへたり

詩篇百二

室生犀星
『愛の詩集』より

残光があなたの髪につくる輪の触れたら狂ってしまう王冠(服部真里子)

<わたし>の篤い信仰によって詠まれた、この渾身の一首に並べてみれば、服部真里子の「冷たいコーラ」は、ただの「冷たいコーラ」ではないことがわかる。

その姿を見せない悪があるように、姿を見せない愛もあるのである。
回避できない悪に抵抗するために、服部真里子は、常、愛を感受することを怠らない。

されば

この一首は、ご自分を安全に(愛に)導く存在への計量不可能な感謝であろうか。

読み返す。
何度だって読み返す。

キリストが湖(うみ)ゆく場面読みながら口つけている冷たいコーラ(服部真里子)

服部真理子「触れたら狂ってしまう王冠」罪深くかなしいこと

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