
目 次
音

着信の音づれを待つ良夜なり水脈曳きわたる月のこころに(春野りりん)
本阿弥書店『歌壇』
2016.1月号
「月天心」より
まわりを見渡せば、このような「良夜」が、この世界にはあるのである。
「音づれ」の「音」は携帯か。
夫がこれから帰るとのメールだろうか。「着信」とはあるが、「待」っているのは、夫が帰宅した玄関のチャイムの「音」かも知れない。
そして、その「音」は、いずれであっても、毒性のあるものを予感できない。
それを見上げる者に、胸のふくらむ夢があっての「月」が、読者のわたしの目に美しく見えた。
ここで、<わたし>は、月に、その「こころ」を見通しておられるが、さて、どんな「こころ」だろう。
音づれ

この一首は、わたしが、短歌を始めた頃に、とりわけ目を引いた一首である。
そして、「音づれ」を、こんな風に考えたことを記憶している。
「月」の軌道に知らせ(=「音」)がある
訪れ?
「月」の運行に、人生を伴に歩む人がここに帰る「音」が、今夜もまた刻まれる
絶え間ない日常の音?
それがわたくし式守の妄言であっても、「月」は、たしかな時間を纏って、これを「曳」くように、この世界をめぐっているらしい。
その纏いは、<わたし>の家族の、たしかな時間が堆積されたものではないだろうか。
一首の容積

さて、初読から7年の時間が過ぎた。
改めて読み直す。
着信の音づれを待つ良夜なり水脈曳きわたる月のこころに(春野りりん)
いいなあ
いい歌だなあ
ビバ 春野りりん
短歌以外でも言えることであろうが、短歌においても、人の好みは、我を通すものらしい。
初読の時の好感度がまったく下がっていない。
この一首の<わたし>は、家の中にいるのであろうが、夜空を思えば、<わたし>も、そしてまた、<わたし>の家も、ほんの点景に過ぎない。
では
読者の
わたしは
どこに
どこ?
<わたし>の家の中か。家の外で、<わたし>の家を、夜空の下に置いているのか。
あるいは、夜空の、「月」のそばをさまよってでもいるとか。
読者たるわたしがどこにいようと、短歌内の大きな容積を感得できることに、わたしは、この歌を読むよろこびを、今も得られるのである。
歳送り春迎え

この連作に、<歳送り春迎え>の題で、ミニエッセイが載せられている。
(前略)
『歌壇』2016.1月号
いつもはひとりで過ごすこの時間を、一年でたった一日、元旦だけは家族三人で満喫する。
(中略)
何処の夜明けがもたらす予感も、穏やかなものであるようにと願いつつ、今日も引っ越し準備を兼ねて、歳末大片付けにいそしんでいる。
春野りりん「月天心」
<歳送り春迎え>より
歳末の心持ちを述べた達意の文章が、この連作「月天心」にほどよく調和して、冬日の家具や壁にも多幸な光のあることを、読者たるわたしにおしえた。
月天心

人は、それまでがどれだけのものであっても、元旦を迎えると、時の流れに愛着を持つ。
今年はいい年に、とか。何の根拠もないのに自信さえ芽生えることがある。
人々の夜空を、月はずっと、このようにめぐってきたのではないか。
そして、たとえば、どこかの家族の、新天地へのこころを曳く。
子を抱きて夕映えの富士指させばみどりごはわが指先をみる(春野りりん)
本阿弥書店『ここからが空』
(未生の時間)より
母と子の交感の美しい場面である。無限の時の中を滅びない一瞬がある。
春野りりんは、その指に、このような指先があるのである。
このような指先をもって、春野りりんは、この世界の時間に「こころ」を描いて、毎夜、夢を結んできたのではないか。
月はその軌道なり
