
目 次
<今>を永遠のものにした短歌
満開のさくらのしたの老夫婦かたみに<今>を写しあひたり(春野りりん)
本阿弥書店『ここからが空』
(さくらの落款)より
老いを残酷としか思えないことがある。
端的に言えば、痴呆とか。
そのような現実から目をそらして、美しいところで美しいものを眺めるようなまねを、わたしは、厳に戒めている。
卑怯である、
とは言わないが、世の真理を闡明する力が衰える気がする。
この歌はどうだろう。
そんな言いがかりをはねつける歌だった。
一過性ではない。
短歌をすぐれたものにできる観察
「満開のさくらのしたの老夫婦」の和楽の姿を、「<今>を写しあ」うと表現した一点に、春野りりんが、これまでいかにこの世界とこの世界に生きる人々への批評の眼を養って生きてこられたか、うかがい知ることができる。
わたくし式守の結婚生活でも、お互いを呻吟すること幾星霜とあった。
大先輩ともなれば、それがいかばかりなものになるか。
この一首の「今」は、わたくし式守ではそこに持てなかったところをふいに打った。
感動を伴って蒙を啓いた。

それはおそらく永遠のもの
「おそろいの帽子をかぶって」だったらどうだろう。
実体験である。
その光景で、メンタル的なダメージがあった時だけに、この顔をあげられなくなるものがあったのであるが。
まあそれだけ人を慰藉する魅力のある光景だったわけだろう。
でも、この心的体験を、わたしは、やはり歌にはできないな、と。
それで終わりの話なのである。
要は、主郭を防いだ話に過ぎないのである。
そう言ってよければ、一過性である。
「<今>を写しあひたり」ならどうか。
誰からも掣肘されない光芒を曳いている。
それはおそらく永遠のものである。
余韻を尊ぶ
改めて読み直す。
満開のさくらのしたの老夫婦かたみに<今>を写しあひたり
いい歌だなあ。
ボクもこんな歌がつくれたらなあ。
詩は、そこで、人が余韻を尊ぶもの、であるようだ。
今さらであるが。
が、そこのところを、わたくし式守は、ほんとうにちゃんとわかっていると言えるのかどうか。
詩を短歌を上位に置く
「おそろいの帽子をかぶって」おられた、わたしが出会った老夫婦。
真冬だった。
それは、手編みの毛糸の帽子。
言わでものことであるが、それは、いかにもとしよりくさい色調だったのである。
されど、それこそが、わたしには魅力的だったのだ。
だったらわたしは、これを、読者が、余韻を尊ぶように表現すればよい。
が、それはできない相談であろう。
なぜ。
一過性では詩にならない
わたしはそこで、すでに慰藉されてしまった。
話は終わっているのである。
その詩はもう、実人生の下位にしかない。
人生に詩が必要でなくなるのであれば、人生としては、めでたいことである。
が、人生に詩が負けていて、そのような詩を、わたしは、とても読む気にはなれない。
かつ、つくりたくはない。