
目 次
しあわせな短歌における出色の一首
しあわせな一日だったなみなみとしているものをこぼさず帰る(原田彩加)
書肆侃侃房
(新鋭短歌シリーズ)
『黄色いボート』
(とおい心音)より
きょうはいい一日だったなあ、なんて短歌がある。
そのような短歌として、これは、わたくし式守には出色の一首だった。
なんか違うんだよなあ、他の「しあわせな一日」的な短歌と。
どこが?
なんか違うの違うとは
ご自分の感情を再現しようとしていないからではないか。
たとえば、カラオケで言えば、陶酔型の唄い方ではない。
なんて考えてみてはどうか。
ご自分を冷静に眺めておいでだ。浮ついていない。
読み返してみる。
しあわせな一日だったなみなみとしているものをこぼさず帰る(原田彩加)
なみなみと?
それをこぼさず?
そう、そう、たまにしあわせにありつくとこんな感じ、こんな感じ
正統派の文学ではないか

転校生のわれはつとめて笑いおり桜の花が目に入りそう(原田彩加)
同歌集・同(とおい心音)より
心理描写がどうのこうのなど詮無い話であるが、黒板の前の「転校生」の実景よりも転校初日の不安と拮抗している心理を、原田彩加とは、さりげなく披いてしまうのである。
むろん転校初日の黒板の前の自己紹介の場面とは限らないが……。
ただ、まだ少女の凛々しい心映えに搏たれる、この一首は、わたくし式守が、短歌のお手本にしている一首でもある。
自己批判
それも健全な
美しい彩色を施して
が、リアリズムである
これもまたおもしろい

そして、おもしろさとして、これも、類例と一線を画していないか。
博士曰く、植物園に咲く花はどれもこれもが酸っぱいのです(原田彩加)
同歌集・(花柄)より
穂村弘の『ぼくの短歌ノート』に、「貼り紙や看板の歌」についての、氏のお考えが述べられてある。
暗示性の文脈に即して云えば、「他者の言葉」を五七五七七の内部に取り込むことによって実際に書かれていること以上の何かを感じさせるということになるだろう。
穂村弘『ぼくの短歌ノート』
「貼り紙紙や看板の歌」より
氏がおっしゃる「実際に書かれていること以上の何か」とはたとえば何だろう。
この著書に、引用した一首ごとの細評はあるが、わたくし式守の理解では、「実際に書かれている」ことの目的が失われる、あるいは、「実際に書かれてい」ないことがむしろ頭に刻まれる。
なんてところだろうか。
この一首も、その初句からして、もうなにやらおかしいではないか。
「博士曰く」って。
なんとまあ儼乎たる初句だろう。
ところが、内容は、
「植物園に咲く花はどれもこれもが酸っぱいのです」
この情報がちっともありがたくない。
他の人と共有しようと思わない。
他の人と共有したいのは、「博士」がこんなことを言っていた、その内容よりは、要は、「博士」が改まって言っているにしてはなんなんだ、そのおかしさだ。
野生の動物とペットが違うように、人工の庭園は、山野の花とは、たしかにそれは違うとは思う。
でも、「酸っぱいのです」って、あんた。
それも「どれもこれも」って。
されど「博士曰く」である。
権威者のありがたいお話なのである。
ビバ
原田彩加
原田彩加の魅力
わたしは、原田彩加の歌集・書肆侃侃房(新鋭短歌シリーズ)『黄色いボート』をおりおり読み返す。
そして、このようなテイストの表現ですこぶる楽しませてもくれる。
是非、是非是非、ご一読あれ、でござる。
