花山周子「障子越しに霞ケ浦」芸術家は瞬間移動ができるのか

時の文化整理に耐えた

障子越しに霞ケ浦があるという夜の座敷に鰻丼を食べる(花山周子)

青磁社『風とマルス』
(霞ケ浦)より

霞ヶ浦の実景を目にしてはいないのである。
霞ヶ浦は、あくまで「障子越し」にある。
されど、霞ヶ浦の存在感は、あまりに大きい。

霞ケ浦のほとりの座敷は、夜であり、障子があって、鰻丼もある。
この輻輳に、霞ケ浦は、もののあわれが馥郁となった。

時の経過による文化整理に耐え得たわびでありさびではないか

わたくし式守は、花山周子の『風とマルス』をおもしろく読んで、『風とマルス』は、既に記事にしている。

今回は、その『風とマルス』にある、この一首を

座敷

<わたし>は、風もなく、波立ちもない霞ケ浦の景観を、たとえ「障子越し」でもありありと目にしていたのではないか。

「夜の」とあるが?

夜も昼もそもそも「障子越し」ではないか。

いいなあ
たのしいなあ

鰻丼

<わたし>は、障子の外にも同時にいたのではないか。

SF?

いいえ。歌人だからです。
(あと画家)

障子を透した灯りがある。
微笑をこぼしあう姿が影絵のように眺められたであろう。

いいなあ
たのしいなあ

霞ヶ浦>座敷>鰻丼

花山周子「障子越しに霞ケ浦」芸術家は瞬間移動ができるのか

霞ヶ浦? 障子越しにあります

座敷? ここは夜のお座敷です

鰻丼? 鰻丼は鰻丼/コーンポタージュではない

味も素っ気もないが短歌になるとおもしろくなる

さびのあるほとりに

ギリシアといえば、現代もそうであろうが、遠い時空に、眩しい陽光の文化があった。
そこまではいかないにしても、わが国日本も、太陽の光は好んできた文化がある。

ただ、日本は、月の光も好んできた。

そして……、
日本人は、蒼古にしてさびのある景観を、時代がどう移ろうとも慈しむのである。

花山周子「障子越しに霞ケ浦」芸術家は瞬間移動ができるのか

障子越しに霞ケ浦があるという夜の座敷に鰻丼を食べる(花山周子)

この「座敷」は、さびではないか。

幕府というものが瓦解して、日本は、欧米の文化をこれでもかと輸入したが、さびは残った。
湖のほとりの畳は残った。

霞ケ浦のほとりの座敷は、夜であり、障子があって、鰻丼もある。
この輻輳に、霞ケ浦は、もののあわれが馥郁となった。

<わたし>は、この座敷で、ほどよい客ぶりである。
そして、この客は、時の移りの文化整理に耐えた、もののあわれの一首を生み出したのである。

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