
目 次
見も知らぬ町
すぐそこに家(うち)があっても良いような見なれた夕べの見も知らぬ町(浜名理香)
KADOKAWA『短歌』
2024.1月号
「春めく」より
既視感ではない、と思われる。
たしかに「見も知らぬ町」であれば、そこは、初めて歩いた町なのであろう。
が、「すぐそこに家(うち)があっても良いような見なれた」町なのである。
「見知らぬ町」が特別性を持ったのはなぜ。
なぜ?
わたくし式守は、ここに、「夕べ」の力というものを思ったのであるが。
夕べ?
夕べの力
夕方とは人に何かを迫る。
と、思うことがないか。
この一首は、町が、夕べに沈んでいる。
「家(うち)」は夕べだったのがあって迫った、と考えてみるのはどうか。
<わたし>は、「すぐそこに家(うち)があ」るような町に、ふだんより広く大きく包まれた。
それは夕方だったから、と考えてみるのはどうか。
人生によってはそうとも限らないのはかなしいことであるが、「家(うち)」は、人を、わが身にかえす。
くつろげる。
夕ぐれの時はよい時、
堀口大學
かぎりなくやさしいひと時。
夕ぐれ時、自然は人に安息をすすめるやうだ。
「夕ぐれの時はよい時」より
視覚だけではないのではないか

読み返してみたい。
すぐそこに家(うち)があっても良いような見なれた夕べの見も知らぬ町(浜名理香)
どこでそう思った
それはこの一首に明かされていないが
信号が赤で立ち止まったのか。
踏切で遮断機が下りていたのか。
どこに用事があった
それはこの一首に明かされていないが
たとえば商店街か。
商店街というのはどこも今ではうらさびれた印象ばかりのご時勢であるが、場所によっては、そこに音はまだある。匂いがあるのである。
たとえば野菜の匂い。惣菜の匂い。
そして、夕方ともなれば、そこここを歩いていた人たちは、もう「家(うち)」に帰る。
夕ぐれの流れに沿って、落ち日が、信号の、踏切の影を長くひいていたに違いない。
その影は一首に収めなかったが
それはどんな家(うち)か
「すぐそこに家(うち)があっても良いような見なれた夕べの見も知らぬ町」にある家は、では、どんな家。
子は塾があってまだ家にいないかも知れない。部活がある子かも知れない。
町が闇に包まれてもまだ母だけの家かも知れないが、家はやがて、家族の構成員が集まる。
おおかたの家は、それこそ見なれた、どこに「あっても良いような」家なのである。
家といえばだいたいこう、という家なのではないか。
途中、赤信号で、ちょっと一息ついているかも知れない。
途中、踏切で、電車が過ぎるのを待つかも知れない。
人々はそこに帰るのである

やがて暗くなる境を極めて、信号は青へと。
遮断機は上がる。
そして家がまた近くなる。
家が
「見なれた夕べの見も知らぬ町」にもっとも似合うのは家なんじゃないのか。
この一首を読んだことで得た、そのような体感を、わたくし式守は、残りの人生にたいせつにしたいと思った。
切に、切にそう思った。
浜名理香は、この一首で、「家(うち)」を見せてくれた。
「夕べ」なるただ一語で、短歌内世界が、こうも鮮やかに映し出されたことに息をのんだ。
結果、わが人生は、また、傑作の一首を獲得した。