
目 次
日記に書かれていた<わたし>
娘が来てカネを盗むと書く父の日記数冊紐に括りぬ(浜名理香)
KADOKAWA『短歌』
2018.8月号
「柿の花」より
「父の日記」に、遠い日の淡い思い出が、おさまっていた。
その「数冊」は、親の歴史が読めたであろう。
しかし、「紐に括」られた。
この一首は、初読より今もなお、わたくし式守に裨益している。

カネを盗む程度問題
娘が来てカネを盗むと書く父の日記数冊紐に括りぬ(浜名理香)
いい短歌だなあ。
娘の晴れ着だったら?
成人した娘が晴れ着姿を見せたことをのこしていたとする。
心情として胸を突く。
娘にしても、それを読むことになれば、誰あってのこの身だったか、改めて知るに違いない。
それが普通である。
しかし……、
この普通が、父に、父と娘に、家族とは何かに、新たな接近をできなくする
娘が少年院だったら?
娘が獄につながれてしまった、なんてことが、のこされていたとする。
父と娘の過去は想像するに余りある。言葉もない。
しかし、そのような話であれば、短歌の外でしてくれないか、とならないか。
物語性が強過ぎるのである。
要は加減のよさだ
奇想天外の短歌は、それはそれでおもしろかろうが、人生にそれを小事と切り捨てていた筈のものを、絶好の機会を得て差し出されると、人間は、この人生の精神史に、小事を、新しく刻めるのである。
詩は、それがあってアタリマエのものに宿らない
アタリマエ過ぎて見過ごしてきたものにこそ宿る
現在を詠んで過去を写す
留守宅のころと異なる陰を抱くあるじの永遠(とわ)に還らぬ家は(浜名理香)
死と離れて故人の姿が想起される。
実体はもうこの地にないが、血は、やはり水より濃いのである。
「あるじの永遠(とわ)に還らぬ家」が、今は、「陰」が「異なる」と。
「あるじ」がこの世にいるかいないか、「陰」に、濃淡の差が出た。
父をそこに探した

スローモーションで一瞬を写す
眺め立つあいだを柿の花は落ちまた落ちひとつ間のありて落つ(浜名理香)
余声なき花の落ちる音あるを、誰のためでもない時の風が、喪の家の窓を通る。
近づき難い魅力があたりをはらう。
経過した時間は、さほどのものではなかったのではないか。
しかし、体感は、そうではない。
実景ではたちまち消えゆく音に、<わたし>は、凝然と立ちすくむ。
「眺め立つ」の、この初句の美しさ。……
時間がここに変容した

浜名理香という歌人
「父・熊本・夏」
この「柿の花」の約2年前の浜名理香に、「父・熊本・夏」なる連作がある。
深く掘り下げるゆとりがないが、「父」を、ここに引いておきたい。
椅子のうえに皮膚のかさかさが落ちている腰のあたりを掻いていた父(浜名理香)
本阿弥書店『歌壇』
2016.11月号
「父・熊本・夏」より
這って行き這って帰ってきた父に替えのパンツを一枚わたす
除菌ウェットティッシュで足をふきましょうお父さんたら猫ふんじゃった
白がちの黒目閃くことのあり足の上げ下げのリハビリのとき
死んだなら紙の上だけの人となる痰をかあぁっと吐くこの父も
短歌の世界で
その人は、この世に、もういない。
その胸を叩いてみる術はもうないのである。
そのような思い余ったものを、胸に沈めて、このような短歌を、浜名理香は、生み出せる。
短歌の世界は、それはそれは当然のこととして、歌の上手がいる世界である。
歌の上手は浜名理香に当然としても、浜名理香は、父との関係を、血液的な相克を叩いて、<わたし>の肖像に、常、精悍な気がある。そのことに、わたくし式守は、驚きを隠せない。
人として、わたくし式守は、浜名理香に、絶大な敬意を捧げたいと考える者である。