
目 次
「母のアルト」の二重の走行
東京では運転しないわれを待つロータリーには母のアルトが(後藤由紀恵)
本阿弥書店『歌壇』
2016.3月号
「ほろほろひらく」より
後藤由紀恵の連作「ほろほろひらく」は、この一首で始まる。
「母」が「アルト」で、 「東京では運転しない」 娘の帰省に、最寄りの駅まで迎えに来てくれた。
「アルト」は、二重の意味を持つ。
一読するやたちまち、この短歌が好きになった。

めぐる世界をもっと知りたい

東京では運転しないわれを待つロータリーには母のアルトが(後藤由紀恵)
外観はさりげない一首なのである。
されど……、
「東京では運転しない」以上は電車かバスで帰省するしかなかった。
「ロータリー」に「母のアルト」がある。
お住まいはそう近くではないところにあるのか。
父は家にいるのだろうか。不謹慎なことこの上ないが、ご存命なのか。
あるいは、この地で、<わたし>は、母寄りに育った娘なのか。
いずれにしても、娘のために、母は、「アルト」で迎えに来た。
さりげなく愛が映しだされている、そのさりげなさが、わたくし式守に、まこと魅力的だった。
<わたし>をめぐる人間たちをもっと知りたくなる。
1首目にして、
街は新陳代謝していて……
1首目にして、
あたらしき駅ビルひとつ見上げおり硝子に映るあかがねの月(後藤由紀恵)
外観はさりげない一首なのである。
されど……、
「あたらしき駅ビル」がある。
「硝子に映るあかがねの月」が目に見える。
狼狽はないが、今は「東京」に住む娘の心中を、かすめるものがあった。
これは何も特別なことではあるまい。
故郷を出た者が故郷に戻れば誰しも覚えがある混錯である。
かつての日常が、今は、非日常になっているのである。
娘は独立している
母と娘の成功

帰るたび就眠時間の早くなる母の背中のはつか光りて(後藤由紀恵)
目頭が熱くなって
しまったではないか
「帰るたび就眠時間が早くなる母」は、かつては、そんなことはなかったのだろう。
<わたし>より早く起きて、<わたし>より早く眠ることなどなかった。
母も老いた
夜になった。
すると、「母の背中」に後光が映(さ)して見えた、と。
娘は、「母の背中」に、そのような感受ができる。
そのように成長を遂げた。
人の成功不成功は、存外、こんなところにもあるのではないか。
この「母」はそれだけ、娘にとって、成功した「母」なんて言い方をしていいのではないか。
わかれの光景

階段をのぼる足音すこしずつ羽の軽さにいつか消えゆく(後藤由紀恵)
母はのぼる。
二階にのぼる。
娘がずっとここでは過ごさない「階段を」、母は、「羽の軽さに」まるではるか上空に「消えゆく」かの光景だ。
目頭が熱くなって
しまったではないか
階段には勾配がある。
子が親から放たれるとはこのような角度をとるのか。
娘はもう独立した
子のおらぬ家に
ちちははの暮らしのルールをほそぼそと確認ののち湯につかりたり(後藤由紀恵)
お父さんお母さんと呼び合う夫婦なりすでに子のおらぬ家にて(同)
いずれもさりげない文体の短歌である。
家中が違和なく営まれるには長い時の堆積が要る。
娘が「東京」にいる間も、「ちちはは」の時間は進んでいたことに胸がふさがる。
それも予想を上回る進み方である。
<わたし>がいないのに「お父さんお母さんと呼び合」っているが、<わたし>がいない時間の中を、「ちちははの暮らしのルール」が生まれていた。
ところで
後藤由紀恵の連作「ほろほろひらく」は、「東京」の苦も、「子のおらぬ家」の苦もない。
彼我の差に悲歌が流れてはいない。
しかし
凡百の、牧歌的な作品群でない。
なぜ?
作者・後藤由紀恵の切り取るさりげない観察は、読者・式守操に、痛みを刻む。
それでではないか。
読むほどに。
ここまで読んできてすでにそうであるように。

かつての日常との交差

父と見る箱根駅伝ひたすらに走る若さをふたり眩しむ(後藤由紀恵)
<わたし>は、「父と」このようにつれづれを慰めた。
盆暮れ正月に帰省すると、離れていた声はいちいちなつかしく、今では東京が日常の<わたし>は、親の老いの備えを心にたくわえる。
さて
この連作の7首目までを読んでみたが、正統的な、格別の厚みを持つ家庭文学と言えないだろうか。
8首目はこう続く。
数日を実家に過ごせば方言のほろほろひらくわたしの言葉(後藤由紀恵)
やはり母のアルトはいい歌である
ここでこの一首を読み返す。
東京では運転しないわれを待つロータリーには母のアルトが(後藤由紀恵)
ああ
やっぱりいい
いい歌だなあ
年が明けると、「母」は、またこの「アルト」で、娘を駅まで送るのであろう。
「母」は娘を見送ると、娘の席が空いた「アルト」で、「ちちははの暮らしのルール」を持つ「子のおらぬ家」に戻る。
が、ただの送り迎えではるまい。
娘また遠くあるを愴(いた)むもいかなる身とて帰り来たらむと祈っておいでに違いないのである。
ついては
家庭の記憶の糸玉を胸に帰京して、その糸玉を、もつれるものをほぐすようにくるくるくるくるまわしてころがしたに違いない。
かくして、「ほろほろひらく」は、傑作の連作として、わたくし式守まで届いた。
