
目 次
いずれ大輪の花は咲くのだろうか
海外の学園ドラマの教師なら廊下で恋の話もするのに(千葉聡)
風媒社
『そこにある光と傷と忘れもの』
(これからの日々)より
いい教師とはどんな教師だろう。
「廊下で恋の話」なんかに関わらないのもまた一教師の個性である、とはならないらしい。
たいへんなんだろうなあ。
頭が下がる。
ちばさと先生の呼び名で慕われる千葉聡さんの、この歌集・風媒社『そこにある光と傷と忘れもの』に、若き日のちばさと先生とそもそも若い生徒の「そこにある光」があった。
わたくし式守は、眩しかった。
眩しかった。

そこにはたしかに光と傷が
そもそも若き千葉聡にとっていい教師とはいかなる教師のことだったのか。
「廊下で恋の話」ができる教師か。
そうは言っていまい。
わからないんだと思う。模索しているんだと思う。
そのような歌だと思う。
まずそこが眩しい。
教師としてまだ慕われてはいないようすである。
無力感。
が、社会に出て知った自己の存在価値などそれが教師であろうが何であろうが、おおかたこんなものなのである。
若木の花は容易に咲かない。
私語それは痛みだ 僕に向けられていない言葉が僕を突き刺す(同)
「僕を突き刺す」気持ちは、その結句だけは定型に収まっているが、各句をまたいで、幾度もまたいで詠われるしかないのである。
不憫だ。
若者のこんなすがたに、わたくし式守は、めっぽう弱いのである
こどもたちの知
その少女が「先生キライ」と書いて消し「自分もキライ」と書き足したノート(同)
「ノート」とは日誌か何かか。
となれば、たとえ一生徒の手によるものでも、「ノート」はもう、公式のものだ。
そこにこんなことを、十代とは、書けてしまえるものらしい。
人生の、こんなすがたにふさわしい光が、校舎には点在している。
「書いて消し」
「書き足した」
千葉聡なる若き教師は、これを、奥を見透すほどの眼で見てくれたらしい。
いい教師とは、ありていに言えば、たとえばこんなあり方ではないのか。
こどもたちのなかに、千葉聡に、「廊下で恋の話」は期待していないが、文字によるコミュニケーションを期待する者が出現したのである。
「その少女」は、若き教師・千葉聡に、何かを嗅ぎ取ったのだ。
試したのだ。
甘えていいおとなかどうか。
やすらかなやさしさ

日誌には「先生しっかりしてください」丁寧すぎる女子の字だった(同)
この一首は、「女子」が、利発であることがよくうかがえる。性急の感は拭えないが、そこはまだ若いからゆえか。
クラスのことか、あるいは授業の進め方か。
見過ごせない意見があるらしい。
しかし、こどもには限界がある。解決に、おとなの千葉聡の力が要るのである。
若き千葉聡はこれを、粗略にしなかった。
だから、歌にしたのだろう。
新米教師の光と傷の日々の中に、やすらかなやさしさがさらさらとながれている。
おとなと「恋の話」をしたい子もいよう。
だが、「しっかりしてください」と文字による言葉に信頼を置く子もいる。
生徒は、それぞれの条件の中で、教師を選んでいるのである。
自分の強み
ちばさと先生、新たな一歩を踏み出す。
されど、それを先に見つけて示してくれたのは、同業の教師ではない。
「少女」の方からだった。
つぼみ
なかなか花が咲かない若木に、おや、すこし小さなつぼみがついたか。
そこがどんな世界だって、若い人に、望み通りの仕事の仕組みなど用意されているわけがない。
ここではそこまで踏み込まないが、以降、千葉聡氏は、ご自分の質に合った方法を探り始める。
文字による言葉たちである。
いずれ大輪の花は咲くのだろうか。
が、わたくし式守は、そこには、さして関心がない。
その努力を、その努力の継続を、いつしか忘れてしまうのか、忘れないでいられるのか、これが、わたくし式守の最大の関心である
千葉聡と式守操
わたくし式守は、50を過ぎて歌を始めた者である。
のこされた人生に大輪の花が咲くことはあるのか。
咲かないだろう。
ばかばかしいとも思う。
だが、蹌踉ななかに、自分の質を見つけようとすること。
ついては、その質を磨いてみること。
よりよく生きようと思えば、結局、それしか方法がないのでは。
現にほれ、ここに、千葉聡氏が、よりよく生きる、そのお手本におられるではないか。
千葉聡は、それを、やさしく説いてくれる。
千葉聡は、わたしにも、「ちばさと先生」なのだ。
そして慕うべき歌人
リンク
千葉聡さんのツイッターには、ご勤務先の学校の小さな黒板に、日々、短歌を書いて、日々、その画像がアップされています。