
目 次
現代にはない「ひとりぽつち」

君の電車闇に消ゆればまた暫くひとりぽつちの我と思ひぬ(靑木ゆかり)
第5回(1959年)
角川短歌賞
「冬木」より
<「消」と「冬」は異体字>
短歌に限らないが、こんな場面の話は、例を挙げようと思えば、とまどうほどもういくらだってあるだろう。
しかし、「こんな場面」が、この一首に限って、わたくし式守に異彩を放って目に映ったのはなぜ。
それも、この連作「冬木」に、「君」を遠く思う短歌は、他にも数多あるのである。
なのに、この「ひとりぽつち」が、わたくし式守の胸を突き上げたのはなぜ。
どうもこういうことではないかと
現代の「ひとりぽつち」とは異質の「ひとりぽつち」なのではないかと
昭和34年の冬の樹々
澄む天を指して動かぬ冬の樹々長きひとりをあはれまれゐる(靑木ゆかり)
「ひとり」とは、独身である、と解して無理はないかと。
1959年と言えば、昭和34年であるが、独身女性への眼差しは、現代より厳しいものがあったようだ。
厳しいものとは、ありていに言えば、「あはれまれゐる」ことである。

まったくの孤独ではないことの厄介
君の電車闇に消ゆればまた暫くひとりぽつちの我と思ひぬ(靑木ゆかり)
「電車」が「闇に消ゆ」るまでいっしょに過ごす、「君」なる人が、<わたし>の人生にいなくはないのである。
ただ、「闇に消ゆ」れば、また孤独になる。
それも「暫く」孤独になる。
これを、靑木ゆかりは、「ひとりぽっちの我」と表現した。
表現も何もないか。
<わたし>のまわりは、<わたし>を、「あはれ」む世界なのである。
「ひとりぽつちの我」は、ここに、暗涙を嚥むことを余儀なくされた。
現代と装いの異なる「天」

澄む天を指して動かぬ冬の樹々長きひとりをあはれまれゐる(靑木ゆかり)
空が仰がれても、「天」の光は、心の奥まで透せない。
「冬の樹々」であれば、
枝は、
緑を待っていよう
「動かぬ」とあっても、
枝は、
蕭々と鳴っていよう
靑木ゆかりは、「ひとりぽっちの我」に、大ぶりな現実味を持たせていないのである。
と言って、この現実を、小さくすることもしない。
この時代の、この時代ならではの、これが、(短歌の)身の纏だったのかと。
小説でもそうであるが、短歌は短歌で、そのすがたに社会相があるらしい。
現代にいない「眸(まみ)淸き若者」たち

眸(まみ)淸き若者の中に愛されし我が少女期のあまりに遠し(靑木ゆかり)
この連作「冬木」が発表された昭和34年は、式守はまだ、この世の水にもなっていなかった。
そして、式守は、靑木ゆかりの異性である。
されど
ここは、この式守もまた、たどりつくべきところであろう。
されば
わかりますよ、と
胸に腕をたためばわかりますよと伝えたくなる
ただ
そのような時代背景あっての「あはれまれ」て「ひとりぽっち」であった。
容易に変奏しない風

眸(め)を上げて怺へむとせしたまゆらを舞ふ風花にまたこころゆらぐ(靑木ゆかり)
「たまゆらを舞ふ風花」は、その春に、美しくも悲しい。
「君」なき春の悲しい風の音を、いっしょに聞いてあげる「君」以外は、ついにいない。
そのようなご世代に生れたのである。
靑木ゆかりが時代に背負わされたものは、式守のそれとは、決定的に異なる。
いつまでも、どうあっても、悲しい風は、悲しい音を奏でる。
いつまでも悲しく
