安藤あきよ「まだ幸せな吾なり」病の人に元気を与えられる

受苦が愛へと

肉色の義肢見ればまだ幸せな吾なりコルセット修理待つ間を(安藤あきよ)

「未来」
昭和33年8月号より

これは、六法出版社の歌集『灯台の灯』の跋(「灯台の灯」に寄せて)に紹介された一首である。今西久穂氏の手による跋である。

「肉色の義肢」の人をそばに、<わたし>に、どれだけ痛ましかったことかが偲ばれる。

わたしも同様の経験があるが、正視に耐えないものがある。かと言って、目を背けるのもまた憚れるものである。

ご本人も医療機関におられるのに、ご本人の受苦をよそに、愛が生み出されているのである。

わたくし式守は、この一首を、何度も読み返してしまう。

この一首に特別な工夫はあるか

安藤あきよ「まだ幸せな吾なり」病の人に元気を与えられる

この一首の技巧上の工夫に、目立ったものはない。

語彙レベルでも、特別な工夫が、ここにあると言えるかどうか。

上句に心情/下句に場面

重病の人にパワーをもらう

安藤あきよ「まだ幸せな吾なり」病の人に元気を与えられる

よろしいんですか、こんな言い方をして。
と、なりかねないが、これは、ほんとうにそうなのである。

わたしは、重病の人にパワーをもらっているのである。
大きな病院に行くと、院内を、歩いてまわることもある。
不謹慎でも何でもいい。わたしの人生に、これは、欠かすことができないものである。

重病の人、わたしがここにあるのは、あなた様のおかげです、と。

まじですよ、まじ

このあたりをわかりやすく説明してくれているものがある。

病院に行くとなんだか気分が落ち込む、負のオーラを抱え込んでしまう、という人がよくいる。おれはちょうどその逆なのだ。元気が出てくる。
世の中にはおれなんかよりももっと重症の人がいる。おれくらいの軽症でへこたれていてはダメだ、という前向きな気持ちが生まれてくるのだ。


中島らも
『心が雨漏りする日には』
(青春出版社)より

唐突に西行

かかる世に影も変はらず澄む月を見る我が身さへ恨めしきかな(西行)

<山家集1227>

「かかる世」とは、保元の乱。
後白河天皇と崇徳上皇とが皇位継承をめぐって武力衝突した。
院政というのは自然発生した歴史ではないことがよくわかる。自然発生したのは、院政を梃子にした武士団の方である。

が、西行がほんとうに心を痛めたのは、もっとピンポイントで、この崇徳院のご無念であろうか。

西行は、厭世・出家して、佐藤義清の人生を棄てた。
都になお心を残してはおられたらしい。でも、ほれ、高等政治の前にやっぱり無力でしかない。

西行は、「月を見る我が身さえ恨めしきかな」がせいぜいのご器量なのだ。
だからこそ人間の歌たり得ているのであろうが。

愛の歌に適合する言葉

読み返したい。

肉色の義肢見ればまだ幸せな吾なりコルセット修理待つ間を(安藤あきよ)

「まだ幸せな吾」と類例の歌はまだあろう。

自分が恵まれていることがうしろめたい、と。そのような心情の歌は。

しかし
西行

しかし、西行の一首は、それと似てはいるが、またちょっと違っていようか。

西行の一首も、たしかに、読む者に、自分のこととして痛ましくなる一首ではあるが。

西行が崇徳院になることは絶対にない出自である。
崇徳院が西行になることなど許されようわけがない。

安藤あきよは

もしかしたら自分もこうなっていたかも知れない。わたしが、この人であったってよかった。そういう心情の歌を言っている。

そのような心情として、わたくし式守に、安藤あきよの、この一首は、出色の一首になるのである。

安藤あきよの愛の短歌

安藤あきよ「まだ幸せな吾なり」病の人に元気を与えられる

まず、人の身の悲運に無力なご自分への痛恨がうかがえる。
が、無力も何も、この歌人ご自身が、病身ではないか。

愛を表現するとは本来まことシンプルらしい

「肉色の義肢」の人に、安藤あきよは、無力を自覚した愛を持った。
その愛に「まだ幸せな吾」以外にふさわしい言葉があるだろうか。

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