
目 次
結局母が亡くなった時のことを
水引きの結びのようにもう二度とゆるめられない母の両の手(式守操)
大森静佳・選
題詠「まだ・もう」より
NHK短歌の佳作に一首、採っていただきました。
「まだ」とか「もう」にどのようなものがあるか、すぐにキャッチできませんでしたが、この人生に強く思った「もう」として、結局(結局です)、この一首に着地しました。
「まだ」とか「もう」
まず閃いたのは、「まだ」も「もう」も、いずれも否定を伴うとは限らない、ということ。
まだ食べられます
まだ食べられません
これが「なにも」だったら否定だけを導く。
なにも食べられません
「なにも食べられます」とは言わないですね
この人生にもう願えないことを
1 まずこんな「もう」が
アメリカ大統領にもうなれない

わたしがまず浮かんだのは、アメリカ大統領であるが、これは、十代から考えていた特別の夢だった。
が、もうなれないどころの夢ではない。
アメリカの市民権がない。
移住して市民権を取得すればいい、と言えばいいかも知れないが、よし、そこまでアメリカ大統領になりたいのであれば、そんな話は、短歌にするよりも、大河小説にするがよかろう。
プロ野球選手にもうなれない

これも考えた。
が、これも、もうなれないレベルではない。
わたしは、攻守走の、いずれにわたっても低レベルだった。
本気でプロを目指していて、あたりに名を轟かせてもいて、なのに不幸な事故で夢を断たれた。
そのような結構であれば、少しは、「もう」の短歌に近づけるか。
そして母を亡くした時のことを
2 母を亡くした「もう」が
両手が合掌されると、母は、その両腕を、もう二度とわたしのからだをまわすことはできなくなった。生前もまわすことなどなかったが。
高校を卒業した時だった。
そも母は両腕が不自由だった。むしろわたしが、母のからだを、この腕でくるんでいた。
それだけにいっそう強く思ったのである。
もう二度とわたしのからだをまわすことはなくなったんだな、と。
これまでであればこうしていた
(草稿)
高校を出たわれの目にホニャララ
なんてしていたところか。
で、これではだめなのだ。
伝わらないことはない。この心情に想像を寄せてももらえよう。
しかし、表現をしていない。
「高校を出た」が欠かせない情報(措辞)とも思えない。
ほどけないものに喩えたい
新聞の束をきつく結わえた紐は?

1 新聞を結んだ紐は
母だろうが何だろうが、ご遺体に古新聞と衝突させて、よし、その完成度がそこそこでも、もっと他に何かなかったのかだ。
ゆるく結わえてもほどけない紐は?

2 ほどけない紐を
でも、そんなものあるのか。
時間をかけて考えた。
結び方の、その強度が弱いことで、むしろ詩的強度は強くなるようなそんな紐を。
そんなものあったか~?
それがあったのである。
水引きがある。
しかし
この水引きたるや、わたくし式守は、なかなか頭に浮かばなかったのである。
バスで次の現場に移動中に、ポコンと浮かんだ。
こればかりは待つしかないか
つまり
完成まで焦らないことだ。締め切りというものはたしかにある。が、まだ間に合うまでは。
そして
(完成)
水引きの結びのようにもう二度とゆるめられない母の両の手
ふりかえって/そして仲間へ
・思いついたものにすぐに飛びつかない
・だめだ、と思えば、すぐ見直しにとりかかって、これだ、となるのをじっくり待つ
ほどけない手=水引き
そう、それだけ。
以上。
歌を投稿していて、もうあきらめかけている人の参考になれば幸いです。
いっしょにいい作品を世に出せるようにがんばりましょうね。
