
目 次
仲間に詩を覚えたことがあったか
十年を支社と電話で処理をした相手の生の声がいとしい(式守操)
佐佐木頼綱・選
題詠「チーム(仲間)」より
NHK短歌佳作で一首、採っていただきました。
お題が「チーム(仲間)」である、と。
わたしとて仲間の一人や二人はいる。
ありがたい。
ありがたくなったいくつかを思い浮かべてみる。
すると、このありがたい性がますます強くなって、詩など要らなくなってしまったのである。
(実人生としてはそれはめでたいことであろうが)
で、まあどうしましょう、となりましたが……、
どうしましょう、となってしまった題であるが

(草稿)
十年を支社と電話で処理をした相手と会ってナンタラカンタラ
たとえばスポーツで、わたしが試合に出たのは、体育の授業くらいか。
あと少年時代の草野球。
にしたって、チームプレーについて実戦で考えたことなどないのである。
働くようになって、わたしは、経理畑に身を置いた。
経理の世界は、これがけっこう個人技の世界で、自分の担当は着手から完了までひとりで受け持っているに近い。
現職の清掃の世界もまた似たようなものだ。
自分の持ち場に徹する。
しかし
今となってはもう昔に、長い期間を、遠く離れた支社の人と電話で状況をよく擦り合わせながら進めていた仕事があった。
相手の顔は知らない。
十年ほどして初めて顔を合わせた。
どうしましょう、となってしまった題であったが……、
短歌は<わたし>の文学だけれど
かつての<わたし>に、そのような人生があった。
と相手に迫るようにしてはいけない。
ん? どういうこと?
いかにもいい話じゃありませんか、って短歌ってどうよ、ということ
たしかに、この時間軸の周辺は、わが自分史の、仄かな灯りがある。
が、この物語に無理々々つきあわせるような調子では、表現行為とは言えまい。
いかにもいい話じゃありませんか、と言いたげな成分は、作品がさもしくなっていて、おもしろくならないものなのである。
これを特別だと思わないこと

(推敲)
十年を支社と電話で処理をした相手の生の声は初めて
今回の〆分で、不採用はどれも、これはいい話だ、と訴えたくてしかたない措辞がある。
そんなつもりはなかったのに、そのような調べにしてしまっていたのだ。
ちょっといい話が短歌になっていることを否定はしない。
どうよこれ、ってな措辞と調べがおもしろくない、と言いたいのである。
わたしは、会ったこともない人とよく連絡を取り合って、こつこつこつこつ一つの仕事を何年も何年もすすめてきたことに、一つの詩として価値を覚えていたんじゃないのか。
されば
電話一つで絆が生まれていたことを発見した、なんて方向性に舵を取ってみてはどうか。
その絆(=詩)の価値は、時の経過によって、今も減じていないのだから。
完成へ
初めてであって初めてでない人にずばり何を思った?
うわあ、初めて生で声を聞いたあ、ではなくて、それ以上の何を?
(完成)
十年を支社と電話で処理をした相手の生の声がいとしい
いとしかった

そして、仲間へ
・詩を覚えたことが何かある筈である
・そこで何をどうを思ったかただ素直な言葉で足りないか
・一首の内部構造は単純で足りる
初めて生で聞いた声
=いとしかった
そう、ただただそうだったのである。
今回のレポートは以上です。
短歌を投稿していて、もうあきらめかけている人の参考になれば幸いです。
いっしょにいい作品を世に出せるようにがんばりましょうね。
