
目 次
庭の木/簡潔の妙
推敲に耽りて見やる庭の木々剪り込まれたる簡潔の妙(山下雅子)
本阿弥書店『歌壇』
2017.5月号
「声」より
人生のこれが最後の一日までたいせつにしたい一首だ。
歌作中だったのか。
ああでもない、こうでもないと推敲していると、それが、目に入った。
庭に剪定された木が。
それは「簡潔の妙」だった。
一首内の措辞を追えば、そのように歌意をとれようし、実際、この歌意で堪能できる。
調べも美しい。
歌意を敷衍すれば、歌作の素案で夾雑になっているのを、庭の「簡潔の妙」のごとくなさねば、と思うに至ったのかも知れない。
ところが、それはなかなかに容易なことではなく、とか
簡潔の不在
実際のところは知らない。
知らないが、歌作する者の身に置き換えられる。
何も歌作に限定しなくてもよいか。何かを表現すること全般にわたる極意のごとく味読することもありの一首ではないかと。
されば、こうも言えないか。
人生全般にわたる簡潔の不在を突いている、と。
人生全般まで持ち出しては、飛躍に過ぎるきらいもあろうか。が、わたしに、この一首は、自身を虚飾したこと少なくなかったおりおりが思い出されて愧じたのであるが。
初めてならず

「簡潔の妙」は、連作「声」の、先頭の歌である。
続く二首目は、こうだ。
午後は雨の予報に変わり外出の意欲萎えゆく初めてならず(山下雅子)
「同」より
詠み方が、詠まれている内容が、簡潔である。
午後から雨だってよ~
や~ね~
で、雨降るといつもこう、と
簡潔であるが、結句の「初めてならず」によって、<わたし>の存在感は、いきいきと映し出されていないか。
雨
そして
意欲減退
そして
いつものこと
ご自分を飾り立てている措辞は一切見当たらない。
簡潔。
正に簡潔。
声/その凄み

「為替ほど判らぬものはない」持論の声が時宜得てひびく(山下雅子)
「同」より
連作のタイトルは、この一首から採られた。
<わたし>の背景がわからない。
為替の動向の声が気になるのはなぜ。
この連作をまとめたのは、掲載誌『歌壇』の発行年によれば、2017年の春か。
対米ドルの円相場は、だいたい111円あたりだった。だいたいです。
現在と比較すれば、円高基調だった。とりたてて乱高下もなかった。
現在(2024年12月11日)はだいたい152円あたり。だいたいです。
米ドル建ての預金、あるいはドル建ての借入をしていて、ドルの相場にルンルン(死語?)になったのか。逆に、がびーん(死語?)となったのか。
わたしは財務経理本部なる職域に四半世紀近く身を置いていた者であるが、投資の相場など、期待通りに、もしくは警戒した通りに動かないのである。
「為替ほど判らぬものはない」持論の声は、感情量が豊富である。
だから、<わたし>の内に響いた。
自分の内に感情があって響くのではない。順序は逆だ。
山下雅子なる<わたし>は、そこに、「時宜得てひびく」との言葉を斡旋したのである。
これ以上適した措辞はない、と思われる。
これもまた「簡潔の妙」なるかな。
簡潔の妙/金言として/見やる

歌を作るにおいて、わたくし式守は、邪念はもうない、と思っていた。
一つ上手い歌をものしてやろう、などとのおもいあがりはない、といった意味であるが。
ありていに言えば、読む者を感心させちゃうもんね、ぬぁんてこと
が、人間、いくつになっても自分には甘いのである。
稀に、これは、と思える素材や修辞を得て、つい歴史的な傑作をここで一つ、なんて邪念が生まれてしまうことがあるのである。
結果、完成を見ないで終わる。
アタリマエだ。
そこでのわたしに、それは、どうしても表現しないではいられないおもいが先行して筆を押さえかねているわけではないのである。人々の称賛を得られるかも知れない期待があるだけだ。
さて、ここで先頭の一首を読み返してみたい。
推敲に耽りて見やる庭の木々剪り込まれたる簡潔の妙(山下雅子)
<わたし>は、庭の木々がたまたま目に入ったのか。
そうではあるまい。
「見やる」とは、推敲中の自分にそれを課してのものだったのではないか。
見やる
簡潔の妙
忘れてはならない心がけだ。
自らを戒められる。
ひいてはモチベーションの維持になる。