
目 次
糸のようなもの
潮騒が引くとき身体の内部より抜かれる糸のようなものあり(立花開)
本阿弥書店『歌壇』
2016.9月号
「千年強く」より
この「糸のようなもの」のことはよくわかる。
もっとも「糸のようなもの」との認識ではなかったが。
つまり、それを、詩には、短歌にはできなかったが、たしかに、「潮騒が引くとき身体の内部より抜かれる糸のようなもの」を、わたしも、感じたことはある、ということ。
この生命を確かなものにしていよう、それも、必要不可欠のもの。
それが、「潮騒が引くとき身体の内部より抜かれ」てしまう。
そして、人は、この働きに抵抗できない、と。
糸であると特定はしていない
読み返す。
潮騒が引くとき身体の内部より抜かれる糸のようなものあり(立花開)

短歌など読む人に、あるいは、詠む人に、この一首は、驚きは与えない。
短歌など読む人は、あるいは、詠む人は、このような感受が珍しくないのである。
しかし
「潮騒が引くとき」の「糸のようなもの」とまでの表現に至る人は少ないのではないか。
ここで、「糸」とまで特定していないのもまた、説得力を増していようか。
結果、いくたりと読み返して、この一首は、胸にたいせつに保存された。
「糸のようなもの」と類例の歌を、わたしは、読んだことがない
「抜かれる」との体感を表現している歌を
また、わたしに、類例の歌は、一生が何生あっても詠めない
立花開と同じ体感は何度かあった。
この差は、要は、才能の多寡の差なのか。
自分に対する探究心
立花開に、まず自分に対する探究心がある。
「糸のようなもの」の、そのありように、おやっ、と思えるのは、正に(まだ残されている)この「糸のようなもの」あってなのである。
わたくし式守も、自分に対する探究心が、ないことはないわけだ。
「糸のようなもの」の、そのありように、おやっ、と思う「糸のようなもの」が、わたくし式守にもあることはある、というわけだ。
しかし、この「糸のようなもの」が「抜かれる」と、わたくし式守は、あ、糸が抜けた、と思うだけである。そう思っておしまいの話になる。
糸が逃げ出してしまった、なんて感じ方くらいはあるか。
されば、わたしは、この糸(のようなもの)を呼びとめる。
そう言ってよければ、これは、自己管理というものに近い。
そうともなればもう詩の領域とは言えまい
立花開と式守操の「糸のようなもの」への資質の違い、と済ませてしまえば、話は、そこで終わってしまうが、「糸のようなもの」が「抜かれる」ことがあれば、わたしは、それを言語化してみることよりも、そこでいかに対応するかで生き延びる手当てを探す。
そのようなもう根本的な資質の差異があることを思う。
糸のようなものってでも何よ
糸のようなものか~
なるほどな~
すばらしいの一言に尽きるな
「糸のようなもの」って、でも、何よ。
何よ
「糸のようなもの」は、これを、たとえば聖なるもの、との解釈はどうか。
だって、ようなものだよ、ようなもの
物質じゃあないんでないの
喪っては、やはり具合の悪いもの。なのに、喪うことが不可避のもの。
糸のようなものはどこへ
「糸のようなもの」は、「潮騒が引く」先は、では、いったいどこへ。
どこへ?
海に沈むのか。いずれ昇天するのか。
消滅してしまうのか。「身体の内部より」どこかへ行ったにしても、どこかで永遠の存在なのか。
潮騒を前に、立花開の、この「糸のようなもの」は、物語の始まりなのか。物語がこれで終わってしまうのか。
立花開と式守操/ここに失望があるのか
そんなこんなの思考回路である式守である。
そんなこんなの思考回路では、この先も、このような一首はものせないのか。
わたしは、ここで、果たして失望しているのか。
読み返す。
これで最後だ。
潮騒が引くとき身体の内部より抜かれる糸のようなものあり(立花開)
そんなこんなの思考回路なばかりに歌は生み出せない、と断言するのは、人生の残り時間がなくなってきつつはあるが、まだ早かろう。
すなわち、ここに、失望はない。
立花開の、この愛すべき一首は、これを読めば、その都度、わたしに新たな方法を試みることを課すのである。
こんな歌が詠めたらなあ、と。
むろんただ鑑賞することでも愛すべき一首であることは言うまでもない。