鈴木美紀子「トィンクル」短歌なんてやめておけばよかったか

まずこの短歌を

トィンクル、トィンクル、って星空にアフレコしていたお通夜の帰り(鈴木美紀子)

KADOKAWA
『短歌ください
(双子でも片方は
泣く夜もあ篇)』
テーマ・きらきらより

この一首は、コールサック社『金魚を逃がす』の「トィンクル」にも収められています

「お通夜の帰り」に迫るものがありますね。不謹慎な美しさというのか。一首の背後には、人は死ぬと「星」になるというイメージがあるんだろう。

 選者・穂村弘の評より

わたしも“短歌ください”には投稿していた。
掲載されることなどほとんどなかった。それでも投稿していた。

採用されるための投稿ではなかった。
自分の不採用作品をこのような一首と徹底比較するために投稿していた。

詳しくは後述するが負け惜しみではない。

投稿の目的とは

投稿は、採用されるためじゃなかった、と。これはちょっとわかりにくい。

採用されればうれしい。アタリマエだ。
採用されなければがっかりする。アタリマエだ。
でも、採用されることだけが目的ではなかった。

じゃあ投稿のいちばんの目的は何だったのか。

いったん仕上げた作品を手元に置いておくと、採用された作品と比較して、手元の玉が、磨き次第ではこれも名歌になるような気になる。
あるいは、
いったんは仕上げてみた作品があまりにみじめで見直す気さえなくなる。

どちらも歌作に益さない。
送ってしまえばもう悪い夢は見ないのである。否が応でも比較する。

これがわたしにたいせつだった。必要だった。

再び「トィンクル、トィンクル」

読み返してみたい。

トィンクル、トィンクル、って星空にアフレコしていたお通夜の帰り(鈴木美紀子)

たしかにきらきらだ。
厳粛な夜にこれはアウトじゃないか。
違う。
死者への供養だ。どうか安らかに、と。

かなしみがあった。いたみがあった。

星空の、いずれかの星を、ピンポイントで感受しておいでか。
そうではあるまい。
鈴木美紀子は、わたしと同年代である。若い人よりも見てきた死の数が違う。

たくさんの死があった。

きらきらを感受すればするほどにいたむのである。
あまりにいたむから 「 トィンクル、トィンクル、って星空にアフレコ 」するしかないのである。

一読後コンマ一秒でこれだけ思った。

堂々たる採用作とはこれくらいでないとだめなのだ。

ろうそくを抜かれたあとのケーキにはかなしみに穴。さばよめなかった(鈴木美紀子)

書肆侃侃房
(新鋭短歌シリーズ)
『風のアンダースタディ』
(私小説なら)より

不採用作品を解禁してみる

当サイトを自作の落選作品の発表に利用することを、わたくし式守は、自ら禁じている。
簡単に人に読まれては、わたしの短歌の才では、ぜったいに上達しない。

が、今回ばかりは、むしろそれを試みたい。
圧倒的な才と圧倒的な非才が一目瞭然となるだろう。

これなのである。採用が投稿目的ではなかったこととは。

比較

<式守操:不採用作品>

駅前のしろいひかりはパトカーを降りた婦警の階級章に(式守操)

“短歌ください”
テーマ・きらきら
の、落選作品

<鈴木美紀子:採用作品>

トィンクル、トィンクル、って星空にアフレコしていたお通夜の帰り(鈴木美紀子)

KADOKAWA
『短歌ください
(双子でも片方は
泣く夜もあ篇)』
テーマ・きらきらより

階級章

「しろいひかり」がよわい。何かを欠いている。パトカーから降りかけた脚の先の靴があつめる光でも描いた方がよかったのか。見ていないが。が、見たとしてもそこには詩を覚えない。

「階級章」はたとえばどうなったの?
表現するポイントをそのどうなったにシフトしないと?

トィンクル

「お通夜の帰り」だからこそ美しい「トィンクル」に。結果、「トィンクル」に、時空を超えて迫るものが生まれた。

短歌はやめようかな

鈴木美紀子のこの一首との比較で、わたしは、短歌をやめようかな、と。
50を過ぎて、人生をやり直したい、と思って始めた短歌であるが。

なにもスター歌人、有名歌人になることが、その「やり直し」とやらではなかったが、人と人の間にこうも、天与の才と天与の非才を見せつけられればばかばかしくもなってくるではないか。

やめておけばよかったのだ。人生をやり直すなんて。
いままで通り酒を飲んではうじうじ生きる日々だからとて、それはそれでおれの人生で、それでいい、と腹をくくってもいた筈じゃなかったのか。

いけない、いけない。よりよく生きたいと魔がさしてしまったのだ。
おかげでよけいな精神作業が増えてしまったではないか。

されどまだまだ

が、結局は、やめなかったのである。

たしかに「トィンクル」はつくれない。「階級章」ではいまひとつ。
されど……

プロの野球選手でも、打席に10回立って、3回打てれば大打者なのである。
同様に、プロパーな歌人だって、10回打席に立って、10回出塁していると言えるか。

が、3割打者の凡打とわたしの凡打は、同じ凡打でもやっぱり違うのである。
要は、そこだ。

その差が、「階級章」できらきらしないが、「トィンクル」できらきらする、ということになるようだ。

今のわたしに、「階級章」を「トィンクル」ほどにはできない。
(これからもできまい)
が、「トィンクル」ほどにできる詩がわたしにもうない、となぜ断言できる。

あ、いや、もうけっこう年数を経ていないでもないが、そんなこと知るか。

以降……、
この圧倒的な差を前に、わたしは、イメージをいかにふくらませればいいか、なぜそのイメージがいきいきとなるのか、一方で、なぜ自作はそうなってくれないのか、語彙レベルや技巧は二の次に、ああだ、こうだといっそうの検証をするようになった。

だからと言って、大した進歩を遂げてもいないが、投稿作の採られる頻度が、すこし上がった。

鈴木美紀子「トィンクル、トィンクル」

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