
目 次
写生として軽い

三階の窓に眺むる雪解の道一すぢに人の続けり(知らない人)
角川書店
『短歌を作るこころ』
佐藤佐太郎
「作歌上の注意」より
佐藤佐太郎の著書より引いた一首である。
「おちいりやすい欠点」の例として、佐藤佐太郎は、この一首を挙げておられる。
ご自身でわざと「欠点」をのこして作歌なさったのか、「欠点」の一例に、どなたかの投稿歌からこれを挙げたのか。
軽い
同書・同章
調子が滑らかに失して、軽く薄い感じを与える。言葉が表面的で一通り。
(内容(見方・感じ方))より
一方で、佐藤佐太郎は、この著書で、こうも言っておられる。
写生というのは、実際を見て、見たまま、感じたままを歌にすることである。
同書・「作歌真」
(写生と万葉調)より
だったら、この一首は、さして「欠点」などないことにならないか。
が、この一首は、これでは「実際を見て、見たまま、感じたままを歌」にしていないらしいのである。
たしかに<わたし>の唯一無二を見せている圧(と言ったようなもの)が絶対的に不足していることはわからないでもない
同じ写生を斎藤茂吉は

たまたまに農の家よりいでてこし猫がわが乗れる汽車を見てをり(斎藤茂吉)
「猫」と接点を持つことに奇跡的な何かが潜んでいる気にもなる。
それでかな~?
こうも迫るものをその程度で?
<わたし>は「汽車」に、そして、「猫」は「農の家より」と、二つの生命の動線が交差した。生命に時間の価値は、人も猫も、同等にあることがわかる。
斎藤茂吉の<わたし>の唯一無二は、圧(と言ったようなもの)が、強大である
「三階の窓」はやはりよくないということになる
三階の窓に眺むる雪解の道一すぢに人の続けり(知らない人)
これ、「二階の窓」でも成立しないか。
また、「雪解の道」は舞台背景であるが、驚きを持てないばかりか、昨日だって、明日だって、そこに、同じ光景がありそうだ。
もちろんそれを歌にしてもいいのである。
が、であれば、「三階の窓」に、「雪解の道」うんぬんが、いつもいつもあって、いつもいつもあることの感慨を読ませてほしい。
写生のプロセス
(知らない人)にはないプロセスが(斎藤茂吉)にはあるようだだ
三階の窓に眺むる雪解の道一すぢに人の続けり(知らない人)
たまたまに農の家よりいでてこし猫がわが乗れる汽車を見てをり(斎藤茂吉)
うその話ではない
目に浮かぶ
が、驚けない
アタリマエだ
本人が「あっ」ってなって作っていない
そこが「軽い」との評につながってしまうのか、そこまでの断言は、わたしにはできかねる。
うその話ではない
目に浮かぶ
そして
身を乗り出してしまう
アタリマエだ
本人が「あっ」ってなって作っている
モチベーションの差はシンプル

短歌のモチベーションがなくなってきた、とする。
そこには、創作意欲だとか何だとか、まあいろいろあろうが、要は、何かを創作してみたい、との意欲があっても、出来上がったものは、いつまでたっても未熟なことに落胆しかないからであろう。
ましてや、あれこれ制約があって、結社に入れない、となると、メディアに投稿して、採ってもらえないことには、作品を発表する機会がない。
インターネットで、現代は、短歌などいくらだって公開できるが、それでは、越えるべきハードルを越えられない、との考えがわたしにある。ハードルを越えるために、ねばって、ねばって、ねばることを自身に課せない、と。
しかし、その投稿とやらの果ては、ほれ、また未熟、という結果ばかりなのである。
モチベーションを維持できる方が、
よっぽどどうかしていないか
採否の否の数の話をしているのではない。
徒労しか覚えられない作業に落ちてしまうのはなぜ、と言いたいのである。
アタリマエだったのではないか
ほんとうに創作したいことを創作していないからなんじゃないか。
創作しているんじゃないか
短歌だけに限った話ではない。
だいたい作者が本気でそうと思ってもいないものを、よしやその体裁がよくできていても、おもしろい、と思ったことがこれまであっただろうか。
されば、採否の否という結果に落胆することはあっても、よし、ならば次の作品で、とのモチベーションはまた生まれる。
リンク
『斎藤茂吉の短歌研究』は、斎藤茂吉の作品を、一首ずつ解説してあります。斎藤茂吉について、短歌作品以外にも記事が豊富にある、至れり尽くせりのサイトです。