
目 次
おちいりやすい欠点
橋わたる人影水に映りたり清らに澄みし冬晴の川(知らない人)
角川書店
『短歌を作るこころ』
佐藤佐太郎
「作歌上の注意」より
佐藤佐太郎の著書より引いた一首である。
「おちいりやすい欠点」の例として、佐藤佐太郎は、この一首を挙げておられる。
ご自身でわざと「欠点」をのこして作歌なさったのか、どなたかの投稿歌から「欠点」の好例としてこれを挙げたのか。
安易
物の見方、感じ方が通り一遍で、いいかげんのところで妥協している。自分の見たという内容と確かさとがない。散漫で、不確実である。
同書・同章
(内容(見方・感じ方))より
されば短歌をやめた方がいいのか
この一首を、わたくし式守は、そうそう悪い歌とも思えない。
アマチュア感丸出しではない。きれいに詠まれてある。
が、一言、つまんない。
ただ……、
このようにさえ式守は作歌できていないことが心中をかすめる。
やめちゃおうかなあ、短歌
手に取ると、都度、ついつい先を読む一冊である。
が……、
読まなきゃよかったのか、この本

なにも短歌をやめることはないのである

佐藤佐太郎は、この一冊に、師であられた斎藤茂吉の、次の一首を引いておられる。
みなもとは石のかげなる冬池や白き鯉うきいでてしまし噞喁(あぎと)ふ(斎藤茂吉)
(前略)
冬なのに白い鯉が浮き出しているというのはいい感じだ。しかし、それは普通にある状態ではない。たまたま偶然に見たわけだが、
(中略)
湧き出る水があることによって、水の温度は冬でもいくらか温かいという理由があるのではないか。それで鯉が浮きあがって空気を吸ったりする。
(後略)同書・同章
(作歌の楽しさ)より
要するに、知らない人の「冬晴の川」と斎藤茂吉の「冬池」は、歌作上の技術以前に、感受したものからして違うのだろう。
同じ「たまたま偶然に見た」ことでも。
わたくし式守は、「冬池」を、このようには、とてものこと作歌できない。
されど……、
やめちゃおうかなあ、短歌
とはならないなあ、こんどは。
なぜ?
そりゃあ斎藤茂吉と比べたってなあ
斎藤茂吉の「冬池」

読み直す。
みなもとは石のかげなる冬池や白き鯉うきいでてしまし噞喁(あぎと)ふ(斎藤茂吉)
おそらく斎藤茂吉の名を伏せても、この短歌は、初読の人に、非凡な一首であると突きつけよう。
四季の歩みにやさしさがないか
どれだけこの世界の摂理を認識してしまえる
人間と自然の関係性を常に頭の芯に置いている
知らない人の「冬晴の川」

橋わたる人影水に映りたり清らに澄みし冬晴の川(知らない人)
のみこみやすい結構である。
手触りのいい語彙が流麗に並べてもある。
しかし……、
なるほど、「自分の見たという内容と確かさと」はなく……、
要は小才がきいているだけのこと
格の違い
みなもとは石のかげなる冬池や白き鯉うきいでてしまし噞喁(あぎと)ふ(斎藤茂吉)
いつもであれば、この通りは、ひと通りの寒さじゃないかのかも知れない。
防寒着の前をかき合わせる日もあろう。
しかし、この一首は、短歌の、その結構からあふれるもので、人間と世界が、温和に調和している。
冬の音響の中で、
鯉が、
日常生活と
乖離していない
この短歌は、たとえば鯉の気ごころを、それはそれとして観察させる一点があるだけでも、作者(それは大・斎藤茂吉なのであるが)の、世界へのおもいの深さ違う、というわけだ。
格の低いものとして

みなもとは石のかげなる冬池や白き鯉うきいでてしまし噞喁(あぎと)ふ(斎藤茂吉)
たしかにわが一生が何生あってもこんな歌は作れなそうだ。
しかし、
橋わたる人影水に映りたり清らに澄みし冬晴の川
このように作らないことはできる。
短歌が上手になるとかならないとか、そんなことの前に、まず「物の見方、感じ方」なのである。
されば、式守にも、できないことはあるまい。
リンク
『斎藤茂吉の短歌研究』は、斎藤茂吉の作品を、一首ずつ解説してあります。斎藤茂吉について、短歌作品以外にも記事が豊富にある、至れり尽くせりのサイトです。