
目 次
おちいりやすい欠点
煙りつつ冬の雨降る構内に貨車の動くがかすかに見ゆる(知らない人)
角川書店
『短歌を作るこころ』
佐藤佐太郎
「作歌上の注意」より
佐藤佐太郎の著書より引いた一首である。
「おちいりやすい欠点」の例として、佐藤佐太郎は、この一首を挙げておられる。
ご自身でわざと「欠点」をのこして作歌なさったのか、どなたかの投稿歌から「欠点」の好例としてこれを挙げたのか。
単調
積極的に悪いというほどでなくても平板で物足りない歌。一通りの事柄はわかるが、内容希薄で、強く捉えたところがない。
同書・同章
(内容(見方・感じ方))より
されば短歌をやめた方がいいのか
この一首を、わたくし式守も、「平板で物足りない」とは思う。
されど……、
このようにさえ式守は作歌できていないことが心中をかすめる。
やめちゃおうかなあ、短歌
手に取ると、都度、ついつい先を読む一冊である。
が……、
読まなきゃよかったのか、この本

なにも短歌をやめることはないのである

佐藤佐太郎は、この一冊に、師であられた斎藤茂吉の、次の一首をまず引いておられる。
ガレージへトラックひとつ入らむとす少しためらひて入りて行きたり(斎藤茂吉)
ためらいがちに後退するトラック。
(中略)
そのありふれた事実のなかに、人の心に衝撃をあたえる真実がある。同書・同章
(作歌の楽しさ)より
知らない人の「貨車」と斎藤茂吉の「トラック」に甚だしき懸隔がある。
たしかに「ありふれた事実」なのに。
わたくし式守は、「トラック」を、このようには、とてものこと作歌できない。
されど……、
やめちゃおうかなあ、短歌
とはならないなあ、こんどは。
なぜ?
だってオレ、
イチローや大谷のように野球がうまくないからって悩まないもん。
唐突に日商簿記検定の教本について

日商簿記検定の1級に合格した経験がある。
司法試験や会計士試験と比較すれば、さほどでもないが、これはこれでそこそこ難易度が高い、とされているし、事実、それなりの勉強をしないで合格できるものではない。
独学だった。
アタリマエである。
そのための予備校に通えるだけの時間も金も用意できなかった。
教本選びが大事である。
解答ページの解説は、どれだけこっちの役に立つか、教本によって、程度に大きな懸隔がある。
自分で最善の解法を編み出せないが、いくつかのサンプルの中から最善はどれかを選ぶ、となれば、これはできないことはない。
その教本だけを繰り返して解いた。
つまり、こう言いたい
自分でいい短歌を作れないが、どっちの短歌の方がどういいかは、自分でも選べる
斎藤茂吉の「トラック」

読み直す。
ガレージへトラックひとつ入らむとす少しためらひて入りて行きたり(斎藤茂吉)
まことこのままの光景を、わたくし式守も、よく目にする。
そして、わたしに、韻文の上手があったとする。
この光景を茂吉のように短歌にできるのか。
ぜったいにできない。
うるさく説明するようでナンであるが、
それを、ちゃんと目にしているのである。
そして、韻文の腕だってある、との仮定である。
それでもこの一首はつくれない。
「貨車」に欠いているもの

煙りつつ冬の雨降る構内に貨車の動くがかすかに見ゆる(知らない人)
ここにはたしかな<わたし>が、「冬の雨降る構内に」存在している。
「貨車の動く」を目にしていることで、<わたし>の存在に、冷たい時間と空間が加味された。
では、これをこうしてみたらどうか。
(改作)
煙りつつ冬の雨降る構内に少しためらひて貨車の繋がる
「繋がる」は、恣意的であるが、「貨車」の写生に、茂吉の「少しためらひて」を転用してみた。
「見ゆる」を省いたのに、<わたし>の存在は、もっとたしかになる。
「貨車」に詩性が帯びる。
「少しためらひて」は死角に入っている?
穂村弘の『短歌の友人』にヒントをいただく。
うめぼしのたねおかれたるみずいろのベンチがあれば しずかなる夏(村木道彦)
<「たね」には傍点あり>

(「うまぼしのたね」は……、)
圧倒的なリアリティ
(中略)
我々の意識の死角に入っているような言葉河出文庫
穂村弘『短歌の友人』
第3章(<リアル>であるために)より
死角に入るのは合理性に基づいて?
穂村弘の『短歌の友人』に、再度、助けを借りる。
謝りに行った私を責めるよにダシャンと閉まる団地の扉(小椋庵月)

「ダシャン」という表現の発見が決して容易でないのは、
(中略)
或る種の合理性に基づいている。
(中略)
新聞記事やビジネス文書に新鮮なオノマトペやメタファーが充ちていてはまずいだろう。河出文庫
穂村弘『短歌の友人』
第3章(「ダ」と「ガ」の間)より
少しためらひて・うめぼしのたね・ダシャン

ガレージへトラックひとつ入らむとす少しためらひて入りて行きたり(斎藤茂吉)
うめぼしのたねおかれたるみずいろのベンチがあれば しずかなる夏(村木道彦)
謝りに行った私を責めるよにダシャンと閉まる団地の扉(小椋庵月)
では、斎藤茂吉は、「うめぼしのたね」をキャッチして、これを、村木道彦のように短歌にできるのか。
村木道彦は、同じ体験をしたとして、これを、「ダシャン」と表現できるのか。
いくら短歌の名手(名手どころではない)にしたって、そんなことはない。
ご本人とてそんな錯覚にも等しいことを発言なさるまい。
ただ、こうは言えないか。
「死角に入っている」言葉と「合理性に基づいている」ことのない言葉を、斎藤茂吉は、誰よりも使えたのであろう
ならばこう考えてもよくないか

「死角に入っている」言葉と「合理性に基づいている」ことのない言葉を、斎藤茂吉ほどではないにしても、わたしも使える時が稀にはある、と考えてみるのはどうか。
歌作して、そのほとんどは、「死角に入っ」たままで、それは畢竟、「合理性に基づいて」しまっているかも知れないが、稀に縛りを解かれた表現をできることはある、と。
いい短歌を一首でも
生みだしたいのであれば
納得されない瞬間を待つ
石原慎太郎の著作の中に、次の出来事(ご自身の実話)があって、わたくし式守は、継続すれば、短歌にもこれはあるのではないか、と考えている。

サッカーを始めた頃宙空から落ちてくるボールを足で地面に捕えるトラッピングがなかなかままならなかった。ある日の練習の前、先に一人で出てグラウンドに降りる階段にボールを蹴ってぶつけまた蹴りつけるなんとはない練習をしている最中、跳ねて高く上がったボールをトラップした瞬間いつもに似ず簡単にそれが出来てしまった。
(中略)
その瞬間の動作のメカニズムについてはただ会得としてしか納得されない
(後略)石原慎太郎
『三島由紀夫の日蝕』(新潮社)
では、わが短歌において、いつどのようにこれが可能になる、というのか。
そんなことは、やってみないとわからない。
ばかのように。
ばかのように、続けてみるしかわたしには方法がない。
いい短歌を一首でも
生みだしたいのであれば
リンク
Amazon:佐藤佐太郎『短歌を作るこころ』
河出書房新社ホームページ
Amazon:穂村弘『短歌の友人』
新潮社ホームページ
Amazon:石原慎太郎『三島由紀夫の日蝕』
斎藤茂吉の短歌研究ホームページ
『斎藤茂吉の短歌研究』は、斎藤茂吉の作品を、一首ずつ解説してあります。斎藤茂吉について、短歌作品以外にも記事が豊富にある、至れり尽くせりのサイトです。