
目 次
外界と内界
三面に殺(さつ)の文字の散らばるを見たり朝の無人の部屋に(阪森郁代)
角川書店『ナイルブルー』
(十月の扉)より
稀ならぬはむしろ「殺」にして、「朝の無人の部屋」こそ、人々の遠くにあるものに錯覚してしまいそうだ。
<わたし>は、たった今、このような部屋に、おひとりでおられる。
ほどがたてば外を歩む。
行く先に人やある。
いいなあ
阪森郁代って
三面
「三面」とは社会面のことだろう。
三面が社会面との定義は、誤ってはいまいが、実質は、こうだろう。
政治経済のご立派な記事よりも軟派です、と。
取り扱いとしては一格低く見られてしまうわけだ。
僕の妻は小説と三面記事とを同じ物のごとく見傚す女であった。
夏目漱石『彼岸過迄』より
このような文章もあるくらいだ。
しかし、ここ「三面」に「殺」が「散らばるを見」て、この「部屋」は、その対極に存在していることを知る。
<わたし>を「部屋」の外に出してはいけない気にもなる。
朝の無人の部屋

<わたし>は、朝食を摂っていたのか。
食後のお茶かコーヒーでも飲んでいたのか。
いずれであっても、この短歌全体で、<わたし>が新聞をひろげていることが、わたくし式守の目にありありと見えた。
なぜ見えたのか。
初句に「三面」とあるからである。
それだけで、である。
その「三面」は、しかし、「殺(さつ)の文字の散らばる」ものだったのであるが。
おれには短歌なんて作れないや
三面
三面に殺(さつ)の文字の散らばるを見たり朝の無人の部屋に(阪森郁代)
<わたし>は、夏目漱石の「小説と三面記事とを同じ物のごとく見傚す女」のような女かどうかは知らないが、「三面」を、「殺」の字がうじゃうじゃあることを、期せずして認識してしまう女性らしい。
朝の無人の部屋
三面に殺(さつ)の文字の散らばるを見たり朝の無人の部屋に(阪森郁代)
出勤前とは限らないな。
友人、あるいは恋人とどこかで待ち合わせがある朝か。
今日はのんびり家にいようと、とりあえず起きた、そのような朝か。
いずれであっても、わたしの生活は、朝はちゃんと朝があるのである。
で、こんな短歌は作れないや
この短歌に……
新聞、それも三面だけ
朝
部屋、だけど無人
つまり
表現として、派手ではないが、しかし、巧みな手当てがさりげなくなされているわけだ。いつまでたってもひょうろくだまの式守は、ここに、驚くことしかできない。
三面に、それも、殺、殺、殺……
そこに、朝、ひとりでいましたよ、と
わたしには、
作れないんだよなあ
修正ということ
読み直す。
これで最後だ。
三面に殺(さつ)の文字の散らばるを見たり朝の無人の部屋に(阪森郁代)
実力に裏付けのないナマイキな発言をすれば、この短歌は、修正が要らないのだ
と、思った。
わたしの短歌はこうではない。
こんな風に、わたしには、作れない。
しかし
ここで
きわめて単純なことに思い当たる。
こいうものである。
されば、わたしは、短歌を作るにおいて、何度だって修正を試みればいいのではないか。
単純な結論であるが。
十月の扉
以下、補足として
この角川書店『ナイルブルー』中の連作「十月の扉」に、作者(著者)・阪森郁代は、以下の歌も選んでいる。
ノックして連れ出してくる過去もある 椅子を持ち出し眺むるもよし(阪森郁代)
近づけてまた遠ざける十月の扉(ドア)、黄金色(きんいろ)のノブはつめたい(同)
「朝の無人の部屋」は、この扉を開けるとあるようだ。
そして
朝からのハーブシャンプー うつせみの一夜(ひとよ)の夢はくしけづられむ(同)
この歌も好きです