
目 次
西行のこの歌が好きである
行方なく月に心の澄み澄みて 果てはいかにかならんとすらん(西行)
<山家集353>
この一首を、恋の歌、とする向きがある。
また、朝廷に心をのばしている、そういう読みもある
わたくし式守は、次の読みにとどまります。
月を仰げば心がこんなに澄みわたるが、ゆくゆくわたしはどうなってしまうのか、と。

何よりの魅力は、西行が、さしてお強い人ではないこと
果ては死だけど
人は必ず死ぬ。
わたしは10代で母を亡くした時に、死が見えた体験がある。
短歌なんてやっているのに、こんな雑な言い方はナンなんでしょうが、親が死ねば次の死は子である自分じゃないか、と。
死は、親の向こうにあった。母の実体がこの世に消えて、死が、子であるわたしの目に見えた。
人生百年時代とか言われているが、いくらなんでもこの人生が百年ということはなかろう。
老後も人並みに暮らせるために、無理な肉体行使は避けている。
が、ここがまたメンドクサイところで、肉体の衰えをすこしでも抑止するために、肉体の不行使もまた避けている。
西行さんの不安は生前の不安
西行は、この「果て」とやらに、ピンポイントで「死」を重ねてはいまい。
あくまで生前に、どんな人生が待っているのか、まして出家までした身として、どんな人生になってしまうのか、そういう不安かと。
そして、これではイケナイ、と。なぜもっと泰然としていられないのか、と。
こんな凡俗な自分を脱するために出家したのではなかったのか。
そんなところか。
憚りながらまじめにかけては、わたくし式守は聞こえた者であるが、西行さんは、わたしよりもっとまじめなのである。
すいぶん窮屈に生きておいでなのである。
こんな歌もある。
何事にとまる心のありければ さらにしもまた世の厭はしき(西行)
<山家集729>
まだまだ執着があるようだ。これではいかん。いかんぞ。
なんてところか。
たまには気楽でいいじゃないか、と言いたくなる。
西行さん、さすがにおわします。されど、もすこし気楽にあそばされ、と。
短歌は地上を永遠に生きる
月を星が囲む。
地を月が照らす。
月は、人を、時を超えて搬んでくれるものらしい。
たとえば今ここに、西行さんがおられるように。
この国は、その時の辻で、人々が、歌を残してきた。
その時の辻を、目には見えないが、また耳に聞こえないが、感知できることがある。
西行が苦しんでいる遠くを、流血を伴った平家全盛の鐘が鳴っていた。
院政は、またそれに伴った源平の治乱興亡は、むかしむかしの、とうに現代の話ではない。
が、歌を軸に時の速さを考えるとどうだろう。万葉のひとびとをおもえば、西行あたりなどまだまだ現代人に等しい。
意も行も同じではないが、歌を貫く時間にあっては、古今の差が生まれないのである。
行方なく月に心の澄み澄みて 果てはいかにかならんとすらん(西行)
何事にとまる心のありければ さらにしもまた世の厭はしき(西行)
西行の、ここに引いた2首を、令和を生きるわたしが、なぜかなしまないでいられないのか。
歌を軸にした時の流れに、人智の及ばない仕組みをおもう。
西行を自分の歌に活かせるか
活かせない。
活かせるとしよう。その目的は何。
ああ、いい歌だなあ、とでも思ってもらうことか。功成り名を遂げるとか。
西行の、ここに引いた2首は、なぜわたしを搏った。
そのような思考回路を超えたところで詠まれているからではないか。
行方なく月に心の澄み澄みて 果てはいかにかならんとすらん(西行)
わたくし式守の、たとえば、先に記したあれこれ、ありていに言えば煩悩で、西行にはさぞいまいましかろう。
何事にとまる心のありければ さらにしもまた世の厭はしき(西行)
わたくし式守の、その煩悩、ひいては執着。
西行には、呪わしいことに違いない。
歌のために歩む/徒労を生きる
西行は、白々と冷たい月の下を見渡して、平常の限界を危うく駆けていた。
時の辻でただ詠んでいた。
時の辻でただ詠んでみること。
徒労でも。
でないと、歌の道を、わたしは、歌のために歩めまい。
わたくし式守は、臆することなくこの徒労を生きてみようかと。
それしかないではないか。
わたくし式守の、さしあたって、これが、せめてものモチベーションである。
