能田美千子「籤運」「おのれを責めつつ」まねできない眩しさ

籤運

吉野山いつなら桜満開か籤運弱きが行く日を決めん(能田美千子)

本阿弥書店『歌壇』
2016.7月号
「うおのめ」より

くじ運の悪い<わたし>は、桜が満開になる前に、あるいは名残りの花を見るために吉野山に立つかもしれない、と。

気持ちはわかる。
そう言ってよければ、たのしい歌である。

しかし、わたくし式守は、「ゆく日を決めん」この決意に、襟を正してしまった。
「籤運弱き」では負けないわたくし式守に、この一首は、人生のお手本を見た気にもなった。

いや、まじに
それは次の一首でも

葉の傷んだキャベツ

キャベツの葉剝がすも剝がすも傷みいて買い来しおのれを責めつつ剝がす(能田美千子)

『同』「同」より

そりゃ「おのれを責め」もしようか。
しかし、もう後の祭りだ。こんなキャベツを選んだのは<わたし>なのである。店の人に騙されたわけではない。
このキャベツで何とかするしかない。

わかる。よくわかる。
そう言ってよければ、たのしい歌である。

しかし、わたくし式守は、「おのれを責めつつ剝がす」この決意に、襟を正してしまった。

人生をくよくよ生きてきたわたくし式守は、人生をくよくよしないで生きるためには的なハウツー本を、若かりし頃は、頼ってみたものだ。
が、ほんとうに役に立った本などそうなかった。
くよくよしないでいいんだよ、と言われたってなあ。そのくよくよしない技術を教えてほしいから手に取ったのである。
ここにある「おのれを責めつつ剝がす」姿の方がはるかに教えになる。

これを不運とするには極めて小さい。が、すぐにのみこめないことでもある。それをたちまちのみこんで、要は、心が浅くないのであろう。

唐突に大人と子ども

能田美千子「籤運」「おのれを責めつつ」まねできない眩しさ

大人は偉いか偉くないか

子どもの頃は、見上げていた大人たちが、やたらと偉く見えなかったか。
が、大人になってみると、同じ大人が大して偉くもなかったのである。
そもそも自分にしてからがいつまでたっても稚気のままで、愧じること少なくない日々を送っているではないか。
しかし、目の前の大人を、目に見える姿以上まで目が届くようにはなった。無批判に偉く見えていたのとは質が異なる。
だから、ほれ、歌の中の<わたし>に襟を正すこともあるのである。

くよくよしないで生きる知恵

もういい大人が胃が弱いのに暴飲暴食をすることがある。
そんなことをしないのが大人だと思っていたが、大人になってみると、こんな大人がうじゃうじゃいたのである。
いったん懲りるがまた繰り返している。

“くよくよ”もそうなのだ。
うじうじするのはもとよりメンタル的に強くないからだ。そんなメンタルなのにこれ以上は耐えられないレベルまで根を詰めてうじうじしていれば気持ちを楽に生きられるわけがない。
胃が悪いのに大酒飲みと話は同じなのである。

歌を読むたのしさを超えて

能田美千子「籤運」「おのれを責めつつ」まねできない眩しさ

再び「籤運」

能田美千子「籤運」「おのれを責めつつ」まねできない眩しさ

吉野山いつなら桜満開か籤運弱きが行く日を決めん(能田美千子)

浮き世の義理の花見ではない。お花見をしたいから吉野山まで気持ちをのばすのである。
ただいかんせんわがくじ運よ、と。

最も美しかるべき頃合いにちょうどよくそこに立てるかのか。
でも行く。行くわよ。

くよくよ人間のわたくし式守と違って、能田美千子は、「籤運弱き」過去のあれこれを悔しがる愚に陥らない。吉野山の未来へしゃんと姿勢を立て直すのである。

ほれ

ほれ?

人生のお手本でないかい、まじ

再び「葉の傷んだキャベツ」

能田美千子「籤運」「おのれを責めつつ」まねできない眩しさ

キャベツの葉剝がすも剝がすも傷みいて買い来しおのれを責めつつ剝がす(能田美千子)

こんなめぐりあわせは誰にだって一回や二回はあるものなのである。
大きなお世話は百も承知であるが、能田美千子は、あるいはもっとあるかも知れない。

あるかも知れないが、能田美千子に、それはノープロブレムなのだ。
いや、プロブレムはプロブレムであるが、くよくよ人間のわたくし式守が如きにはならない。

能田美千子は、キャベツにおけるたった今の現実を、たちまち受容した。
これはもうきょうやきのうの受容の技じゃないな。
望まぬ現実にくよくようじうじすることを回避してしまえる敏捷な神経が備わっておいでなのだ。

ほれ

ほれ?

人生のお手本でないかい、まじ

能田美千子と式守操

くよくよ少年だった式守操くんにもう少年の面影はない。
還暦を迎えたくよくよボーイになった。

恥ずかち~
能田美千子「籤運」「おのれを責めつつ」まねできない眩しさ

耐えられない現実と交渉すること絶えることがない。
この交渉事を、わたしは、歌にしようとする。そして、してしまうのである。
歌の名手であれば、そんな文学的動機でもいい歌ができるのであろう。が、わたくし式守にそれは無理だ。

そこにこの能田美千子の眩しさはどうよ、ということですよ。
大人の考え方が歌にあって、且つ子どもの頃の毒されていない心を保っておいでだ。
そのあたりを能田美千子はどう自覚しておいでか知らなないが、まことに淡々として詠む、このありようは、凡庸のものではない。

こんな時に、わたしは、また歌をつくりたいな、と思うのである。
芸術に落ちず娯楽に落ちない、こんな歌を、自分もつくれないかなあ、と。

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