
目 次
生まれた哲学
きいちゃんはきいちゃんになるために生まれたの 八歳の子の妙(たへ)なる哲学(松川洋子)
本阿弥書店『歌壇』
2017.4月号
「奇想天外」より
きいちゃんには、これからも長く生きてゆくことに、煩瑣なものが何もない。
完成された哲学とはこのようなものではないのか。
しかし、ではよし、わたしがたった今、これと同じ思考法があったとする。
言えるか。
言えない。
羞恥心が枷となって。
操ちゃんが操ちゃんになる願いを込めて歌人に五十九
恥ずかち~

八歳/妙なる
きいちゃんはきいちゃんになるために生れたの 八歳の子の妙(たへ)なる哲学(松川洋子)
八歳
八歳なのにこんな発言が、という歌意ではあるまい。
八歳だからこんな発言が、ではないか。
ひいては、人は、社会性が身に付くにつれて、このような思考法は失われる、とか。
妙なる
これもまた憧れの花が咲く措辞だ。
そう、妙なる哲学なのである、これは。
この哲学に至る過程に欠陥がない、といったような。
恥ずかしい、とか言っているわりに、わたしは、さして採用されることもない短歌の投稿なんてしている
死ぬときの議論
死ぬときはうつぶせが楽か仰向けか議論してゐる老人三人(みたり)(松川洋子)
本阿弥書店『歌壇』
2017.4月号
「奇想天外」より

笑った。
笑った、と言っては、不謹慎になる歌だろうか。
いいのか、笑って。
きいちゃんがこれからをいかに生きるかの哲学に匹敵し得る聖性を思えるとしても。
わたしも、坐骨神経痛になって、どんな歩き方が楽か、ご高齢の仕事仲間と議論した。
ただ、お三方の議題は、死ぬときの話である。
やはり笑ってはまずいか。この一首に聖性を覚えはしたが。
きいちゃんの八歳から半世紀たってはいても、でも、わたしには、さすがにまだまだ先の話である
老人という語彙
わたしは還暦にあと数年となって、老人という語彙に、好感を持てるようになってきた。
老人だよ、老人
何だかいいな、と
きいちゃんに劣らない魅力がある、と
清掃作業員である。年齢構成比は、高齢者が占める。
その高齢者が矍鑠としているのである。
わたしの人生の背景を理解して、先はまだ長い、と。
わたしの人生の受難を理解して、先はまだ長い、と。
慰めて励まして、なるほど、これまで「老人」がこうとは知らなかった。
八歳/五十九歳
きいちゃんはきいちゃんになるために生まれたの 八歳の子の妙(たへ)なる哲学(松川洋子)

この一首には虚を突かれた。
まだ幼い子の口からここまでの人生哲学を聞けたことももちろんよかったが、いくつの人であっても、生きてゆくとは、畢竟、こういうことではないのか。
煩瑣なものなど何もなく、どころか、哲学として、これは、ほとんど完成形であるかの。
死ぬときはうつぶせが楽か仰向けか議論してゐる老人三人(みたり)(松川洋子)

この一首を、わたしは、意気の上がらない死を待つだけの歌とは読めなかった。
あきらめの歌だろうか、この一首は。
あきらめの歌であれば、この一首が、こんなにたのしげに目に映るのはなぜ、ということだ。
何と言ったらいいかこう、ジタバタしていない。
操ちゃんになる
操ちゃんが操ちゃんになる願いを込めて歌人に五十九
恥の上塗りをするようであるが、先の、これ。

式守操になるために歌人になったんじゃなかったのか
式守操になるためにがんばれることがまだまだあるんじゃないのか
わたくし式守はたまに、短歌をしていることが、強烈に恥ずかしくなることがあるのである。
圧倒的な非才を覚えることが少なくなくあれば、恥ずかしくなることも少なくなくあるのである。
この連作「奇想天外」は、他にも看過し得ない作品があるが、この二首は、わたしを、残りの人生を、短歌を継続することを、そんなことが歌作動機だったわけでもあるまいに、鼓舞したこと余りあったのである。