
目 次
それはあった
八月の音なき日なれどわが街に白き館の立ちあらわれつ(木曽陽子)
本阿弥書店『歌壇』
2016.10月号
「獏の見る夢」より
八月。
音なき日。
白き館。
八月なのに「音なき日」である。音なき日なのに「白き館」なのである。
そんな背景も世の中にはあったのである。その背景に「白き館」だったのである。
それはある。
それはある、と思えた。
ここで
たとえば
騒々しい八月にパチンコ店が出現したとしたらどうだろう。または、新しくどこかのコンビニでもいい。
こっちの方ならいくらでもありそうだ。
なのに
なのに、「白き館」の圧倒的な存在感が。
歌人とは、あってもおかしくないのに、これまではそれがあると想定していなかったものに遭遇してしまえるのか
完璧な存在

卓上に月のひかりをみごもりし水蜜桃のひとつしずけし(木曽陽子)
連作「獏の見る夢」の最後の一首である。
卓上に桃。
それがかくも美しいのはなぜ。
なぜ
卓上に置かれた何かが詠まれた歌は珍しくない。
また、桃が詠まれた歌も珍しくない。
この一首は、月光のさす静寂の中に存在していることで、読者は、それまで見え得ていなかった美しさを認識できた、と思えるのであるが、どうだろう。
桃の新しい存在感が生まれた。
木曽陽子さんであられるところの<わたし>もそこにおられたわけであるが、桃をかく感受したことで、<わたし>もまた、そこに改めて確かな存在となったのである。
「月のひかりをみごもりし」姿は、たった今、この世界で、完璧な存在としての具象。
桃であってもうこれまでの桃ではない。
人は目に見えない力に生かされている的な考え方があるが、<わたし>が今ここにおられる一瞬の空間は、それが真である証明ではないか
小花ちるちる

前をゆく小花模様のワンピース小花ちるちる風に捲かれて(木曽陽子)
「同」より
「小花ちるちる」がワンピースのそれなのか。つまり心象風景なのか。あるいは小花の実景か。
筆者(わたくし式守)は、実は、そこに興味はない。
それがワンピースであっても、実景であっても、「風に捲かれて」いることで、今、ここに生きている世界が止まってはいないアタリマエに気がつく。
と読んでは、話を大きくしすぎだろうか。
<わたし>だってまた、「風に捲かれて」いるのである。そして、それはかけがえのないことであることが、「前をゆく」を写すことで、ここに具象化された。
と読んでは、話を大きくしすぎだろうか。
それは小花だけではなかった
ゆるやかにとぶ

呼気、吸気、意識しながら歩む道モンシロチョウはゆるやかにとぶ(木曽陽子)
「同」より
まさか健康増進の歌ではないだろう。
呼吸していることを「意識しながら歩」めば、こんどは、モンシロチョウだ、と。
その道を、モンシロチョウは、「ゆるやかにと」んでいる、と。
呼吸することをこう表現したことで、<わたし>も、「モンシロチョウ」も、とどまることを知らないこの世界に、存在は、等価値だった認識を得られた。
木曽陽子
文学に、いや映画でもいいか、世界が全肯定されていることがある。
所詮はドラマと割り切れるものではない。
そんなことはない筈だし、人間たちを、またこの世の中を侮蔑しないようなドラマで、どうして自分の人生がうごいてくれるだろうか。
誰も傷つかないドラマ。後味のいいだけのドラマ。
この人生がそんな生ぬるさでアップデートされたことは、わたしに、これまでただの一回もなかったのであるが。
されど、短歌では、音や風一つで、ふだんからそこにあったのに見え得ていなかった美を認識できることがあるのである。
たとえば木曽陽子さんの短歌のように。
さればわたしも。
歌作のモチベーションは、また高められる。