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千葉聡もまたそうだった
『「詩客」短歌時評』というブログがある。
その短歌時評の155回は、「歌人を続ける、歌人をやめる」とのタイトルで、歌人をやめようと思っている大学生歌人の話が載せられていた。(2020.05.06)
著者は、千葉聡氏である。
千葉聡氏も「歌人を続ける、歌人をやめる」については悩みの絶えないご様子(式守の印象です)を語っておられた。
そして、
自分よりずっと年下の歌人がスター扱いされる様子を見ると、ちょっと辛い。「友がみな」とは、まさに俺の気持ちだ。
「詩客」短歌時評
「短歌時評155回 歌人を続ける、歌人をやめる 千葉 聡」
友がみな
友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
花を買ひ来て
妻とたしなむ(石川啄木)
『一握の砂』
ばか正直に言うことではないが、わたしは、石川啄木の愛読者と言えるほどの読者ではないのである。
石川啄木のどこがいいのか。
と、そこまで思ってはいません。
この一首は愛誦しています。
たしかにこんな日がある。
その評伝をいくらか読めば、石川啄木がいい夫だったとも思えないが、ご自分にメンタル的なダメージがあれば、これを、妻と過ごすことで快復を図っておいでらしい。
だとすれば、であるが、その心情はよくわかる。
啄木が愛しくなる。

有名投稿歌人
短歌の投稿欄に目を通すと、しょっちゅうその名を見かける人がいるのである。
何かしら差し障りがあったらいけないので、ここにいちいちその名は挙げないが、最近は、その人たちのお住いまで記憶してしまった。
たとえば『NHK短歌』を読む。
佳作のページは、北海道から南に順に並べられるが、〇〇県と言えば、何々さんがいらっしゃる。新作はどんなだ、なんて。
載っていない、となると、採られなかった、と考えるのが自然であろうが、ほんとうにそうか。
時間に制約があって、あるいは、お題が難しかった、なんてこともある。たまたま投稿しなかったからじゃないのか、なんて。
つまり、こうだ。
名の知られた人は、掲載されないでも目立つ。
とまあわたくし式守には「みなわれよりえらく見ゆる」次第である。
すなわち、千葉聡氏の用いる「友がみな」は、わたしにもある、という次第でして。

千葉聡さんで「友がみな」とあらば、わたくしあたりの「友がみな」の指数は、どれだけあろう。
といった視点はここでは踏み込みません。
歌のいろ/\
石川啄木に『歌のいろ/\』がある。
今後自分も全力を擧げて歌を研究する積だから宜しく頼む。今日から毎日必ず一通づつ投書するといふ事が書いてあつた。
(中略)
或日私は、「とう/\飽きたな。」と思つた。その次の日も來なかつた。さうして其後既に二箇月、私は再び某君の墨の薄い肩上りの字を見る機會を得ない。來ただけの歌は隨分夥しい數に上つたが、ただ所謂歌になりそうな景物を漫然と三十一字の形に表しただけで、新聞に載せる程のものは殆どなかつた。石川啄木『歌のいろ/\』(二)より
始まりはほんとうにそうだったのであろう。
人は、始まりは、いつも純粋だ。
だが、結果からみれば、これは、歌以前に、人生でただむらっけだったのだ。
若し某君にして唯一つの事、例へば自分で自分を憐れだといつた事に就いてゞも、その如何に又如何にして然るかを正面に立向つて考へて、さうして其處に或動かすべからざる隱れたる事實を承認する時、其某君の歌は自からにして生氣ある人間の歌になるであらうと。
同・末文
人間の歌だそうである。
某君が、その人間の歌とやらを作れるにはどうすればよかったのか。
継続すればよかったのか。
ではよし、継続したとしよう。
が、いつまでたっても人間の歌ができないのになお継続するには何が要る。
唐突にC子ちゃん
米川千嘉子の著作に『親子で楽しむこども短歌教室』(三省堂)がある。
その中の「短歌を作ってみよう!」で、歌人の米川千嘉子は、C子ちゃんなる子どもになって、C子ちゃんは、十首の短歌をつくっているのである。
米川先生は、C子ちゃんの作品を、こっぱみじんにしてしまうが、C子ちゃんは、それでも次から次へ作品を提出している。
わたしは、ここだけを何度読み返したことか。
わたくし式守がなぜこうもいい歌を生み出せないか、その悲哀に、新しい息をつける窓になってくれるからである。
C子ちゃんは、その短歌愛で、人間の歌にはまだ遠くにあっても、短歌を作ることをやめない。
石川啄木の『歌のいろ/\』の某君とは、才能の多寡は同じでも格が違うのである。
でも……、
人間の歌って何。
石川啄木あたりがそう言っているもんだからついなるほど、となってしまった。
そんなかんたんな話のわけがない。
唐突に西行
わたくし式守が、これぞ人間の歌、と考えている歌に、次の一首がある。
かかる世に影も変はらず澄む月を見る我が身さへ恨めしきかな(西行)
<山家集1227>
「かかる世」とは、保元の乱。
が、西行がほんとうに心を痛めたのは、もっとピンポイントで、この崇徳院のご無念であろうか。
西行は、厭世・出家して、佐藤義清の人生を棄てた。
西行も元は武門の出であれば、この争闘に、戦術的な判定ができたであろう。また、その稀な頭脳で、いかなる政治をなせばよかったか、余人より見通しがきいていたに違いない。
が、院政を前に、西行は無力。
西行は、「月を見る我が身さえ恨めしきかな」がせいぜいのご器量なのである。
わたくし式守には、この一首は、だからこそ人間の歌である。
では啄木の「妻としたしむ」は?
友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
花を買ひ来て
妻とたしなむ(石川啄木)
結論的に、この一首も、わたくし式守に、人間の歌である。
先に、有名投稿歌人を、ここでの「友」に仮託して、「われよりえらく見ゆる」に共感したが、この一首の真の比重は、むしろ下句にあると読む。
ご自分はさして妻のいい夫でもないのに、「友」が「われよりえら」いとかえらくないとか、妻と過ごすことで、そんなことと無縁でいたいのだ。
妻となら叶うと信じている。
妻にふだん何も与えていないのが、与えてもらおうとなると躊躇しない。
その虫の好さを、実は、啄木ご本人も自覚しておいでなんじゃないのか。

千葉聡に相談した「彼女」
千葉聡の「歌人を続ける、歌人をやめる」を読んだ。
ネットでフォロワーをたくさん持っている同世代の歌人は、新人賞の最終選考に残っていたり、短歌総合誌から原稿依頼をもらったり、もっと華やかに活動している。いくら頑張っても、これ以上芽が出ない自分って、何だろう。彼女は疲れきってしまったようだ。
「詩客」短歌時評
「短歌時評155回 歌人を続ける、歌人をやめる 千葉 聡」
そんなのどうでもいいではないか、
とはとても言えない。
ただ、こうは思う。
歌でなくても同じことはいくらでもある。
歌をやめる、と。それ自体は、その人の人生だ。
が、「もっと華やかに活動してい」ないなんて理由で歌をやめたいのであれば、それは、石川啄木の『歌のいろ/\』の某君と同じ轍を踏んでいるのではないか。
米川千嘉子の『親子で楽しむこども短歌教室』のC子ちゃんではダメなのか。
もっと単純化できそうだ。
信じられないのは、ご自分の、その歌の才ではない。ご自分の、その歌の価値ではないか。
価値の有無の判定を「もっと華やかに活動している」か否かに頼っておられる。
ご自分の歌が無言に等しいと思ったんだ。
(むろん憶測に過ぎない/妄言多謝であります)
わたしは、「彼女」の歌を読んでみたい。
「彼女」の歌に、「彼女」をめぐる世界を見たい。
そこに人間はいるか、何度でも読み返してみたい。
短歌の世界は、探せば、それこそ無数の「彼女」がいるようだ。
短歌の世界、侮りがたし。あたかも芸人の世界のごとし。
わたくし式守もまた、千葉聡に相談した「彼女」的な歌人なのである。
千葉聡に相談した「彼女」と式守操
わたしは、今日、『NHK短歌』最新号を読んだ。
わたしの投稿作品など全滅だった。
こんな短歌系のウェブサイトを運営していることが恥ずかしくてなってきたではないか。
いやあ
ほんとうに
恥ずかしくなるです
だが、現実がぶつけてくる風や波に大手をひろげてみないことには、人生など動かないではないか。
わたしは人間の歌を作りたいのである。
わたしが生まれた世界は、解決しようにも解決できない問題がある。
愛とか、生とか、死とか、幸とか。
そういった究明を形にするのが、わたしにとっては短歌だった。
それが真に叶えば、人間が出現する、と信じてみた。
そんな才能などなさそうなのに、では、これを、いったいいつまで続ければいいのか。
死ぬまで、としてみるのは?
千葉聡に相談した「彼女」とわたくし式守の短歌は、どうやら「もっと華やかに活動」できないレベルの歌らしい。
されば、わたしたちの短歌は、無言に等しい?
山脈をさして、いちばん高い山が偉いのだ、とはしない感性が、式守にはある。
「彼女」にもあるのでは?
だから、短歌の神は、わたしたちを選んだのでは?
わたしたちは選ばれたのだ。
人間の歌を作るために……。