
目 次
ただ髪を切るのではない
「雨ですねエ」のひと声ののちほぐれゆくひとの心をしばしあずかる(井川京子)
第28回(1982年)
角川短歌賞
「こころの壺」より
言われてみれば、であった。
井川京子の連作「こころの壺」を順に読むと、ここが、床屋であることがわかる。美容院ではない。
床屋さん、であるが、店主によって、そこは、まこと「ひとの心」が「ほぐれゆく」のである。そして、店主に、「心をしばしあず」けていたような。
ただ髪を切っていればいい仕事ではないわけだ
こころの壺
手のなかにほどよくかかえて洗いやるこころの壺のごとき頭部を(井川京子)
「同」より
人間の喜怒哀楽はもとより、脳内で司られる。
脳内の大脳辺縁系と呼ばれる部分の、そこで、喜怒哀楽は司られているのである。
が、喜怒哀楽というものが、頭蓋内にある、という実感はないのがおおかたではないか。おおかたは、胸の中に感情がある体感なのではないか。
それを、<わたし>は、「頭部」に置いて、「こころの壺」と名付けたのである。
こんな表現が可能なのは、人のたいせつな頭を任されるご職業だからか
ついては
そうと思えば、喜怒哀楽が、壺からあふれて胸にたまるかの、まったく非医学的な仕組みを思うに至ったが。
こころの壺を清く
朝の髪にわれの鋏の音をきざみ耳たぶ清く客は去りたり(井川京子)
「同」より
大脳辺縁系の外側は大脳皮質がある。
大脳皮質は、五感の機能がある。うるさく補足すれば、視力、聴覚、嗅覚、味覚、感触である。
今、「耳たぶ清く」、客のお一人が、お帰りになった。
そりゃあ清かろう、とも思えてくる。
先の一首を読み返してよう。
手のなかにほどよくかかえて洗いやるこころの壺のごとき頭部を(井川京子)
五感の機能が備わった「こころの壺」が清められたのだ。さぞさっぱりしたに違いない。
わたくしが床屋でなぜああもさっぱりするのか、井川京子の連作「こころの壺」でよくわかった。
<わたし>の神聖な手
瞳(め)のやさしい聾唖者の髪刈りながら会いて語らぬ刻を頒てり(井川京子)
「同」より
聾唖の方は、たとえば緊急時など、さぞご不便がおありかと。
が、ここではそこまで踏み込まない。
ただ、この一首の聾唖者は、「瞳(め)のやさしい」お人である、と詠まれた。
聴覚こそ正常ではないかも知れない。が、「会いて語らぬ刻を頒」つことができるのである。
五感の「聴」では難儀なさっても、「こころの壺」に、「視」の感覚は、余人よりも鋭く研がれておいでの印象を持つ。
「会いて語らぬ刻を頒てり」はかくして保証される。
たいへん下卑た発言で気がさすが、<わたし>には、脳外科医と同じ値段が付く手があるかではないか
なるほど同業者たちは

保健所のレントゲンに並ぶ同業者おなじ体臭をもちて集い来(井川京子)
「同」より
大脳皮質の、こんどは「臭」である。
大脳辺縁系で、では、この一首の喜怒哀楽は、いずれが生まれたのか。
ちょっと悲哀があるのか。あるいは、同業と矜持をともになさったのか。
悲哀?
矜持?
悲哀は要らないな。
脳外科医と同じ値段が付く技術かどうかは措いておいて、少なくともわたくし式守には「心をしばしあず」けられる。そういうお方である。
それだけではない。
わたくし式守は、そこで、まこと「ひとの心」が「ほぐれゆく」からである。
職業詠ということ/モチベーション
井川京子の連作「こころの壺」は、職業詠に分類されようか。
俗称床屋に、こうも新たに価値(価値はそもそもあったのであるが、その価値に気がつかないままでいたこと)を認め得ることに、しばらくうなだれた。
わたしは、清掃作業員として、職業としての清掃を詠むことがあるが、出来がさっぱりで、清掃という職業詠に挑む気持ちを失いかけていた。
新たにがんばって歌作してみよう、と思った。
モチベーションがアップしたのである。
何より、日々の仕事に、たとえば「こころの壺」の<わたし>の井川京子のごとく、もっと誇りを持たねば、と愧じるに至っては、日々の仕事のモチベーションもまたアップしたのであった。
