
目 次
作れないが読める
電脳とつながるものを捨ておきて海遠(うみとお)光る岡畑歩く(古谷円)
KADOKAWA『短歌』
2020.8月号
「夕日を見る人」より
いい歌だなあ。
好きだなあ、古谷円って。
それは正しい読みなのか、とか何とか言われたら困っちゃうけど、でもまあ短歌なんてさっぱりわからない、なんてことはないわけだ。
うまい歌い手になれないでも……。
薔薇を書けた
わたしは「薔薇」の字が書けた。
が、今は、書けない。

おお、書けたじゃないか。
でも……、
この通りだ。

パソコンで確認しながらだ。
薔薇の字? 書けますよ、
ぬぁ~んて言っていたのになあ。
「檸檬」も
見せたいなあ
しないけど
書けないが読めること
電脳とつながるものを捨ておきて海遠(うみとお)光る岡畑歩く(古谷円)
「電脳とつながるもの」とは、たとえば何か。
リモート会議のパソコンか。あとスマホとか。
ま、そんなこんなのことだろう。
で、疲れちゃった?
などといった具合で、わたしは一首を、それなりに味読はできる。
それは正しい読みなのか、だとか何とか言われたら困っちゃうけど。
でもまあ短歌なんてさっぱりわからない、なんてことはないわけだ。
読めるようになった
わたしなりではあるが、読みを持つことはできる。
この一首は、その読みとやらは、人さまざまではございましょうが……、
<わたし>は、作者・古谷円は、
IT機器を使っての仕事、あるいは、それは仕事でないにしてもIT機器での人さまとのコミュニケーションに疲れてしまったのだろう。
で、「海遠(うみとお)光る岡畑歩く」ことにした、と。
「海遠(うみとお)光る」それも「岡畑」は、「電脳」とは、対極にある生産の場である。
一つめのハードル
帳面に何度も書いて、せっかく「薔薇」の字を書けるようにしたが、今はまた書けない。
でも、さしあたり読めるだけまだよかろう。
古谷円の短歌を、わたしは、味読することができるようになった。
古谷円のように短歌をつくれないが、これを、感知できるだけまだよかろう。
短歌の乱読の果てにそうなったのである。
時間が質に変化した、といったところか。
だが、
わたくし式守は、読めるだけではなくつくれるようにもなりたいのであるが……。
二つめのハードル
時間が質に変化する働きを味方につけて、わたしも、短歌をつくれるまでにしたいのであるが、でも、どうなんだ、これって。
薔薇の二字がせっかく書けるようになっても、気がつくと、書けなくなっていたではないか。
明らかに衰えている。
才能が不足しているところに、衰えが加わっているではないか。
この連作に、次のような一首もある。
無聊にはしんねり土の匂いして種のかたさで眠りに落ちぬ(古谷円)
こころたのしめない夜であろう。
IT機器を軸に暮らしがあっても、「土の匂い」が感知された。
ご本人は、そこで、「種のかたさ」になってしまった、と。

わたしは
こうは作れないのだ
いいなあ
こんなの
つくれるひとは
短歌、やめちゃおうかなあ/やめないだろうなあ
徒労を生きるとは、まこと困難な道である。
短歌、やめちゃおうかなあ。やめないだろうなあ。
でも、「薔薇」の字はもう練習しないな。
あと「檸檬」も。
