
目 次
微妙な年齢だった60という歳
老いというほどの老いではないが、もはや完全に若いと言えなくなったことを痛感している。
先の7月、わたしは、還暦を迎えた。
で、この60なる年齢であるが、最近、何とも微妙な年齢だと思うことが少なくなくあるのである。
みんなは疲れていないのか
自分でそう言うのは憚れるが、わたしは、わたしが身を置く世界で、まじめにかけては聞こえた者である。
清掃の現場で、そこまでしないでいい作業品質を提供しようと努める。
それが、最近、適当なところで妥協するようになった。
職務上の美意識を捨てた。
ほんとうにガタガタガタガタッと体力が落ちた。
外見はもうあきらめていて
白髪が増えて、増えて、これがけっこう面倒なので髪染めなんてものはもうやめてしまおうか、と思いつつもしている昨今である。
髪染めした顔を鏡に映しても、大して若返りはしないのである。その程度のことにこの面倒。無駄ではないか。髪染めしないと一挙に老け込むわけでもなし。
たとえば迷子になると
わたしは自動車の免許は持っていないが、自転車は、日に1時間は乗る。現場の移動に使う。
基本、安全な運転を維持できている。
ときどき高齢者の自転車の運転に危険を感じることがある。高齢者の運転が危ないのは何も自動車だけではないのだ。
が、わたしの運転は、さしあたり問題ない、というわけだ。
ならいい、とはいかない。
うっかり道に迷うことがある。と、激しい恐怖に襲われる。
若い時分にも道に迷うことくらいあろうが、還暦を迎えて道に迷うのは、ついにわたしもアレがきたか、と怯えるのである。アレとはアレ、アルツハイマーだ。
吉野鉦二
以下、引用する短歌は、いずれも、吉野鉦二『時間空間』からである。
昭和30年から45年までの作品を収めたものである。
これは氏の51歳から66歳までの作品。
植物性神経

背をたてて唸れる猫と對ひ合ひ老いたる猫は唸りかへさず(吉野鉦二)
短歌新聞社
吉野鉦二歌集『寒露』
「時間空間」
<以下同じ>
(植物性神経)より
「老いたる猫」に、<わたし>は、落胆したのか。
あるいは、老いることの、これぞ真理と見入ってしまっていたのか。
いかにも老いを養っている鷹揚な姿に、式守は、微笑ましくなったものだが。
でも、植物性神経とは何。
夜(よる)の木の音のまにまに思ひつぎ植物性神経といふ語を得たり(植物性神経)
ある。
ある、と思える神経である。
「思いつぎ」に搏たれる。
子につながる悲喜を共にし二十五年われ病みやすく妻去らざりき(同)
「共にし」に搏たれる。
夫婦の潮路にこんな尊さが待っていることもあるのである。
すなわちこれも植物性神経。
と、読んではだめか。
竹林の蝶

いつまでも竹林にさす夕光(かげ)を見てをるわれを子はいぶかしむ(竹林の蝶)
老いも若きもこんなやすらぎを持てる。
老いも若きも無常に差がない。
が、この一首の<わたし>において、「見てをる」のは「夕光」だけか。
軋み合ひ音をひそめぬ竹林に蝶は入りゆく眼をもつ蝶は(同)
今入りてゆきたる蝶は鳴かざらむ雑木林の奥よりのこゑ(蝶は鳴かざらむ)
<わたし>に、聴覚が研がれているようすが感じられるが、どうだろう。
われもまた風のやうに去る竹群(たかむら)の地を擦る影と影を重ねて(青き炎)
がくがくと鋪道を圧(お)して走る音わが下腹部をひびかしゆけり(竹林の蝶)
聴覚が研がれるにつれて、とまで言い切ることはできないが、次の一首の力は、聴覚によってではないか、と思えるのであるが、どうだろう。
形なして青き炎の地中より燃えたつごとくわれを立たしめ(青き炎)
聴覚はさらに鋭く研がれて

夜鴉の病めるがごときこゑきこゆ燈(ひ)を吹き消さむ衝動の湧く(伊勢雑歌)
花終へしひそけさにゐる枇杷の木の葉をかき鳴らす如月(きさらぎ)の月(同)
聴覚は、さらに鋭く研がれた。
自然の変遷に、人間は、このようになるものなのか。
わからない。
わからないが、時の経過に従って、人は、おたがいをいたわれるようになるらしい。
死にいたる時の速度の異なれる人集まりていのち養ふ(同)
そして影が鮮明になる

水に濡れし桶たたくごとき吠え方をする犬つつむ深き夜の霧(白き梅白き滝)
遠きよりひびきくる音遠きへにひびき去る音夜(よる)を遠くす(黒きささめ雪)
夜が音で感受される。
壁に眼を凝らして立てばきこえくる壁の向うの人間のこゑ(病魔小韻)
壁の隔たりを音で認識する。
遠き燈の光さへぎる掌(て)の影がかたち鮮明に壁を黒くす(病魔小韻)
影のみになりしかと夜の木を視つむコンクリート塀の前に立てる木(同)
影というものも視覚に頼って認識される。
されるが、その影のあまりに鮮明なことに息をのむ。
影は、自然も人間も、どこまでも伸びる。どこにでも潜り込める。
やがて、自分こそが、影なのではないか、とも思えることがある。
ゆかりなき老人の死を聞かされて影のごとくに立ちあがりたり(孤りの夜)
動と静

物体はみな硬直のしづけさに入りたるらむか夜の耳が鳴る(蝶は鳴かざらむ)
夜をこう表現して、<わたし>は、やはり、と言っていいかどうか、「耳が鳴る」のである。
それは、朝を迎えても。
かはたれの窓の明りにひびく雨いまだ夜のままの心のつづき(同)
今日は昨日の続きに過ぎない。
ぞんぞんと空間を時の過ぎゆくにいらだちは誰もしづめてくれぬ(同)
「ぞんぞん」というオノマトペによって、「いらだち」は、若い頃の、時が無情に進むことのいらだちとは質感が異なる。
淡い諦念に縁どられていないか。
若い頃のいらだちにはまだ、未来という時間が残されていた。
今はそうではない。残された時間はもう少ないのである。
「しづめてくれぬ」の結句は、まわりへの恨みつらみではあるまい。
吐く息/石

死ぬるまでわが息は浄くならざらむ秋日の光澄みとほれども(雪のいのち)
息が浄くない体感は、この一首を読む者に、あまりに切ない。
その切なさは、次の一首とも呼応している印象を持った。
雑念をうち消すごとく無意識に吐く息につきていづるわが声(伊勢雑歌)
時の経過に容易に清澄を覚えられない<わたし>は、冬に夏に、石に目を向けている。
堪へとほしゐるもののごと北陰(かげ)の石は雪よりあたたかく見ゆ(雪のいのち)
白き石のゆがめる面(めん)は夏の日に灼くることなくうら和ましむ(同)
石は、冬も夏も、音一つない。
しかし、石もまた、たくさんの夏と冬を経ているのである。
ここには、日本に今も滅びない無常の文化がある。
清澄がある。
白き夜の雲

何ものも怖れずなどと言はざれど白き夜の雲われを殺すな(白き夜の雲)
連想される万葉集の一首がある。
慰むる心はなしに雲隠り鳴き往く鳥の哭(ね)のみし泣かゆ(山上憶良)
慰めん手段もなく、雲隠れに貌(すがた)も見えず鳴いてゆく鳥の如く、ただ独りで忍び泣きしてばかりいる
斎藤茂吉『万葉秀歌』より
妄想の些(すくな)くなりし晩夏の日日(ひび)樹樹のみどりのひと色ならず(同)
緑の葉はやがて黄味を帯びてくる。ついに黄身が勝って、一枚、二枚と地に落ちる。
これは自然の摂理で、何も<わたし>だけにそう目に映る自然ではない。
が、次の一首の雪はどうだろう。
われのみが知れるごとくに錯覚す空黒きより降るささめ雪(黒きささめ雪)
自分だけにそう映る「錯覚」である、と。
ああ、そうとも思えようか。
冬の黒い夜空にささめ雪の白さは、まさに幻想である。
死なないことにはちゃんと意味がある

それぞれの冬に入らんとする木木の凍ることなき内側おもふ(木木の内側)
麻酔より永遠(とは)の眠りに入りゆける友ありきわれは麻酔より覚む(胆嚢切除手術)
自分はまだ死んでいない、ということに、実は、ちゃんと意味があるのではないか。
と、読んではだめか。
これを敷衍をして、
生きよ、
と自分を諫めている、と読んでみるのはどうか。
スローガンのような歌をわたしは今もなじめないでいるが、次の一首で、わたしの背筋は、ついしゃんとなった。
生きゆかむはげしき心つまづくな頭(づ)の上にしてとほき松風(伊勢雑歌)
人間のこのような決意を、わたしは、尊いと思う。
吉野鉦二。この頃、60前後。
わたくし式守もまた。
<わたし>も、わたしも、まだ60前後に過ぎない、と説得されたのである。
病身だった吉野鉦二に。時を超えて。
まだまだ生きよ、と。
これからのあり方を、吉野鉦二の作品群で、わたしは、やさしくあたあかく指南された。
吉野鉦二『時間空間』の「あとがき」より
こういう自選歌集ははじめてであり、自分の才能の無さ、欠点ばかりが痛感されて、とまどいしつつ漸く、纏めることができた。
(中略)
働いては病む繰返しをしてきたので、内観的な狭い境涯の歌が多く、忸怩たるものがある。
(後略)吉野鉦二『寒露』
「あとがき」より
氏のこの言葉に展開される葛藤に、わたくし式守は、人生の価値を置いた。
停滞を余儀なくされる人生の詠嘆を感じて、「あとがき」に至っても、わたしは、しばらくうなだれていたのである。
