
目 次
まずは鮮やかな香りを
木犀の今日新しき香を容るるからだかすかに浮き上がりたり(横山未来子)
短歌研究社『水をひらく手』
(木目)より
鋭い嗅覚である。
「香」を起点に詠まれた短歌がどれだけあるだろう。
次の一首もまた。
截られたるレモンの香り明るめばしばらくののち戻り来る夜(雲の時間)

こんどは耳です

こゑにあるゑみを捉ふるわが器官金箔のふるへのやうに(紫煙)
横山未来子に、「耳」は、このようなものであるらしい。
急かさるるやうに応へを求めゐき雪にならざるものは音立つ(気泡)
いづくにか大樹あるらし春の日をとほく囀りの器となりて(汲む)
冬から春へ、これを、耳で感受するのである。
河に小石投げては音を待つやうにゐたりし冬よ陽は動きつつ(鷲のやうに)
そも秋から冬までにして、音を、欠くべからざるアイテムになさっておいでなのである。
こんどは目です

小鳥もひとも動き始めつ一日(ひとひ)とふつめたく深き時を汲みつつ(汲む)
横山未来子は、目に、「時」を視覚化させてしまえる力がおありである。
そして、横山未来子に、「時」は、「つめたく深き」ものなのだそうな。
空の弧に沿ひつつ雲の群れながれだれの足跡もあらぬ明日へ(足跡)
誰も「明日」に「足跡」をつけることなんてできない。
「時」は、自分に引き寄せて、なんと広大であることか。
二十九歳(にじふく)となりたる夜半の雪あをく彼方まで雪を捺せる跡見ゆ(破線)
横山未来子は、ご自分の未来を、このように感受して、
ましろなる明日が怖し鉛筆の倒るるやうにひとを求める(ここからは)
「鉛筆の倒るる」響きで、「明日が怖し」いことを増幅させる。
思はざるふかさに星座傾けし一時間わが生も進みぬ(天と地)
そして、「時」は、人智を超えた力としか思えない「思はざる」存在によって、須臾の遅滞もなく無情に「わが生も進み」ゆくのである。
不全感

ゆるやかに護られて来しことさびし唇乾くまで丘にゐつ(砂)
羊雲ひろく連なり現世にいまだ護るものなき身のかるし(力集めて)
「かるし」が哀切である。
痛ましい。
痛ましいが、いいのか、赤の他人がこんなことを言ってしまって。
しかし、作中の<わたし>とその読者は、果たして赤の他人だろうか
捥ぎ取れる無花果に白き汁にじみ与へらるるばかりのわれの濡る(同)
おや、「濡る」とある。
では、ここに、次の一首を引くのはどうか。
桐の木のありたる場所に木はあらず根もあらずアスファルト黒く湿れり(うすむらさきの)
『水をひらく手』の<わたし>と整序しているものをおもう。
それは
水
横山未来子における「水」におもいを馳せてみたい。
横山未来子の水

今年の花を見て来たる午後ねむりゆく身に歳月の水は巡りぬ(うすむらさきの)
われにわれの時移りゆきしんしんと大地は果樹に水を送れり(扉)
耳で目で時を感受する<わたし>は、「水」を体感なさること少なくなく、そのことでは、次のような短歌をたちまち引くことができる。
水は暗く汲みつくせねば木の蓋をずらすやうに見てまた忘れゆく(雲の時間)
ひと月前この空間に花掲げしは未熟なる実を持ちて死にたり(うすむらさきの)
砂塵さへかがやく朝(あした)菜の花の茎明瞭に水を吸ひ上ぐ( 雛と魚)
さらさらと流れる水が、木に、花に、さまざまな色をつけて、それは、人間の生命と整合していることを、ここに改めて知ることができる。
再び耳のこと=それは横山未来子の祈りにも似て

水底に沈める音をひろひゐる熱たかき夜のふたつの内耳(葉)
土の下の種よりしろき根の伸ぶる音聞くやうに雨夜ねむりつ(花杏)
水を、ここでは、耳で捉えておられる。
やはり
水
次の一首は、『水をひらく手』のなかで、わたくし式守最愛の一首である。
君が熱を出してゐるとふ夜に聴くピアノの音ひとつひとつの水紋(足跡)
横山未来子は、耳によって、音に祈りを持つのである。
祈りを、水に、託すのである。
28 父よ、み名があがめられますように」。すると天から声があった、「わたしはすでに栄光をあらわした。そして、更にそれをあらわすであろう」。
29 すると、そこに立っていた群衆がこれを聞いて、「雷がなったのだ」と言い、ほかの人たちは、「御使(みつかい)が彼に話しかけたのだ」と言った。ヨハネによる福音書12
そして
きみ
「きみ」なる存在に注目してみたい。
きみとの恋愛

君ゆゑに独りのわれか繰りかへし硝子にあたる蜂の羽音す(素手)
<わたし>は、「君」との関係において、憂いのない恋愛ではないごようすである。
(もっとも憂いのない恋愛などそもそもあるだろうか)
オリオン座天に確かに置かれをり呼(よば)はばこゑはかりりと落ちむ(息)
わがこゑに応ふるこゑよさみどりの春の鏡をすべる水滴(雲母)
遠き星空も、身をめぐる緑も、「わがこゑ」の谺あるのみ。
「きみ」はそばにいない。
失くししもの/与へ得ぬもの

昨日(きぞ)われが失くししものよさやさやと水絵の空の色流れたり(ふかく凭れて)
性愛の歌なのか。
横にゐたることの昂ぶり退きてのち髪の内側はつめたくなりぬ(ぬれてゐる肩)
葉を失くしし尽くせる桜樹 われの眼は君の骨格を忘れてをらず(葉)
これらが何にしたって、「失くししもの」ははかなく、それゆに美しいことが、痛みを伴って迫る。
くずれなき言葉と声をいとほしみまた寂しみてきれぎれに逢ふ(不在)
うつむきて過ごせる幾日ゆらぎあふ木漏れ日は踏めぬものと気づきぬ(月の図)
うねるようなかなしみに胸が熱くなる。
きみに与へ得ぬものひとつはろばろと糸遊(いとゆふ)ゆらぐ野へ置きにゆく(汲む)
「与へ得ぬもの」とは何か。それはわからない。
が、<わたし>は、蜘蛛が吐く糸がゆらゆらと揺らす光となって晩秋に身を置くのである。
未来をのぞめない

成らざりし約束は明日あたらしき欠片を寄せて傷多き手か(夏にさはる手)
やはり会えない。「夏」なのに。
「あたらしき」とある。されば、「手」は、既に「傷」があるのである。
繋ぐもののわづかとなれば梅雨明けを待ちきれず書く夏空の葉書(並足)
パンなどを割りて分けあふ日を恋ふる一組の手を膝に置きたり(葉)
これだけの感性のふくらみも、才識の豊かさも、未来に、明るい見通しを持たせてはくれない。
きみとの未来

家族とふ樹の作る影やはらかき北国へきみ帰りゆきたり(旧暦)
水や食器の音のみ近き夕刻にきみのゐる街の初雪映りぬ(冬日影)
お相手の「北国」なるところに、<わたし>は、ともには行けないご身分らしい。
そして、おひとりで、たとえばここはキッチンだろうか、「北国」の「街の初雪」を目にするのである。
そして、このあたりはもう、爪を噛むように読み進めることに。
得られざる形とおもふいつか君が握るちひさき手袋の手を(傾く)
お相手と不適切なご関係なのか。
そのような背景などないにしても、お相手の子を産むことはのぞめないらしい。
泣くことに力集めて泣きしのち噛みしめぬままもの食みてをり(力集めて)
わたくし式守も泣く。「力集めて」泣く。
また、次のようにも泣く。
耳もとに赤赤と血の集まりていま鳴りゐるとおもひて泣けり(紫煙)
蜘蛛

きみに与へ得ぬものひとつはろばろと糸遊(いとゆふ)ゆらぐ野へ置きにゆく(汲む)
すでに引いた一首である。
つくづくいい歌だ。
蜘蛛とはこうも人間を支える力があるものなのか。
次の一首も蜘蛛である。
本棚へひとすぢ蜘蛛の糸渡る春ゆるやかにこころ組み変ふ(花杏)
音階を高きへ移りゆくやうにひかりは蜘蛛の糸を滑れる(鉄柵)
未完の愛の途上において、そのこころがどう映し出されているか、蜘蛛を軸に、横山未来子は、その目と耳で検証しておいでなのだろうか。
低体温

大粒の雨に叩かれ空缶は鳴り出しわれは冷まされてゆく(月の図)
皮剥けばま白なる蓮はしはしと切るたび腕に冷えひびきたり(気泡)
高き樹に夕立の前の風は来てざわざわと二の腕の冷えたり(並足)
凌霄の色つよき昼二の腕など肉あるところばかり冷たし(旧暦)
横山未来子は、このようなおからだの女性であられるようだ。
されど、動と静のいかなる情景も細心の気くばりを傾注して、そのからだは、人間の血が脈搏つ。
そして
果実のごとく女の顔を包まむとおほき男の手は画かかれたり(ぬれてゐる肩)
あの夏と同じ速度に擦れ違ふ歳月のあはき肉をまとひて(蜂)
相聞歌に百の滋味を取り出して、横山未来子は、常、その人生の先を見据えることを怠らない。
低体温に貴重な時よ

一歩退きて満開の樹を仰ぎゐるわづかに温度低き身として(花杏)
朝のひかり届き来れる数分をはなやぎてゐる銀杏の大樹(一対の耳)
重き蕾たもちて時をはかれる樹もつとも深き桜色せり(雲母)
樹の見えぬ空間に葉は降りながらみじかく永く夕映えのあり(傾く)
目に耳に、水が、めぐっている。
水のめぐりに沿って、時は、音を伴ってめぐっている。
そして、目に、時が映る。
「一歩退」けばいい、と。
「重き」ゆえに不安定な「蕾」あらば、その全姿たる「樹」が「深き」色をなすことを、横山未来子は、短歌で説く。
それはそのまま人間の姿と重なってはいまいか。
「みじかく永く」とはまさに、人間の時そのものではないか。
たとえがきれいであること
短歌研究社の『水をひらく手』は、ことごとくたとえがきれいである。
いいのか、そんなことで。
腐りきっているとしか見えないものには目を閉じたままなのか。
そうではない。そうではない。
横山未来子は、たとえそれがつらくかなしいものであっても、今ある道を飾ることなく告白している。そして、つらくかなしいばかりの道を慈雨のごとく潤している。
きたないものをきれいと言っていない。
きたないものにきれいを確かめる。
闇の中に光を求める、そのための絢爛なたとえなのでは?
1 初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。
2 この言は初めに神と共にあった。
3 すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
4 この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。
5 光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。ヨハネによる福音書1
今ある道に無力でしかないことがいかに痛恨であるかは、逆に、これを心業の威として、わたくし式守を圧しては、わが人生の先を展くのである。
