
目 次
果報はまだ尽きていない
金網のひし形くぐりこれの世へ出でたるごとき顔するとかげ(梅内美華子)
短歌研究社『夏羽』
(香ばしき)より
大きな波をのりこえてぽっかりと顔を出すと世界が違って見えることがある。
そのようなことが人生にある。
そのような短歌として、この一首は、わたしに果報はまだ尽きていないことをおしえる。
さて、梅内美華子の「これの世」で見られる風景はどんな?
冬から春へ

足に羽つくはずなけれど真つ白なスニーカー買ひにゆく春である(飛行服)
『夏羽』の<わたし>は、春は、余人に及ばない歓びを覚える。
冬から春への時間経過を、さながら一期の大事とばかりに、入念にさぐりをいれているフシがうかがえるのである。
冬の苑薔薇の名前を読みながら老妃のごとく声かすれゆく(老妃のごとく)
水仙が眠りの淵に咲きそろひ寒のゆるむを肩先に知る(耳中人)
白梅は吐息のごとく咲きつぎて襟巻をせる犬がゆくなり(白き火)
先端につぼみの重さ加へつつ桜の幹は締まりゆくかも(同)
いずれも愛誦するに足る魅力がある。
その精妙なことに魅力を覚えられるのはもちろんであるが、梅内美華子の世界は、冬枯れのような寂しさが点綴している。
強く濃く孤愁に囚われて、惻々と胸にあふれる情調を奏でる。
現在地点を知覚する

病人食のパスタはまづいと笑ひをり電話の父の八戸訛り(予行演習)
なるほど梅内美華子なる歌人は、八戸の出であられた。
「父」がどれだけ魅力的であるかも、この一首で、よくわかる。
腎を病むふるさとの父天気図の傘マークの下に今宵も眠る(同)
父との思い出のほとりに過去をたたえて、自身の現在地点をも、常、知覚しておられるらしい。
まずは景色をさぐる

景色をさぐるのは、なにも冬から春にかけてばかりではない。
糸縒女(いとよりめ)そと棲む白きライラック五月の街にブラウスを生む(海猫の島)
静まりて青き雪野は眠りゆく月一輪の統べる世界に(耳中人)
桐の花うす青き灯をかかげをりオイルタンカーゆく昼の海(コンビニの水)
華美な色彩は求めてはおられないごようすである。
基調色がうすい。
さまざまな歌人にさまざまな色彩がある。
基調色がうすい歌人もいるのである。
短歌に親しむおもしろさは、わたくし式守には、この多様性である。
六月の雨のドームの照り翳り映して空を押し上げる傘(ハミングバード)
四本の線路見下ろし待つ時間香油のごとし日照りに揺れて(まじなひ)
冬から春が、5月を経て、すると、どうだろう。
基調色が、「日照り」によって明滅した。
円周は拡がる

木立ちより体温抜きとるやうにして遠ざかりつつ冬の陽沈む(かすかに笑ふ)
汗ばめる腋のあるときじんと鳴り遠い雷感じゐるやう(ハミングバード)
『夏羽』の<わたし>は、冬も夏も、遠くを感知できる。
が、そのセンサーは、しかし、遠くを感知できる程度のシロモノではないのである。
たとえば次の一首はどうか。
法王庁宮殿にたつ物音のひとつは黄色の生贄の絵より(橋のからだ)
人の根の深いところに誰にもあるであろう何かが揺さぶられる。
いいなあ
こんな歌が
作れたらなあ
雨の美しさに包まれたもの=死
青空をところどころに滲ませて蜜のひかりの天気雨降る(天満月)
これは、先の、明滅を感受した方の一首か。
美しい

しかし
「雨」に、梅内美華子は、美しさがあるだけではない、と説くのだ。
まだ雨を残したままに暮れてゆく雲の暗さに人の死を聞く(渇望)
木の下に見る青時雨透きとほり死者たちは地に沁みこみてゆく(ラリー)
音もなく「死者たち」は地の深くに眠るのであろう。
あたかも美しい雨のゆえんは死を包んだこれであるかに。
そして
「死者たちは」、梅内美華子の手によって、たしかな存在感を放った。
ひかりごけ散らばるやうな街の灯に木はあたらしきぎんなん落とす(イルカの胃には)
「ぎんなん」とは
そのようなものらしい
自身も死に向かうことを避けられない

海猫のグレーの羽のほの青く光りて夭(わか)き日重くなりゆく(海猫の島)
うす青きグレーの羽は梅雨空を打ちつつ消えぬ声のごとくに(七月の雛)
人はつまでも若いままではいられない。
ブラウスをふくらます風 もうずつとみづから恋に走つてゆけない(飛行服)
現代は、外界が必ずしも死の巷ではないが、歳を重ねれば、勇ましく足を踏み出す力が衰えてしまうことでは同じである。
ぎんなんの臭き実を踏み中年に入りゆくわれはかすかに笑ふ(かすかに笑ふ)
「ぎんなん」とは
そのようなものらしい
まずからだありき

梅内美華子の短歌の魅力の一つを、わたくし式守は、ここにあるような、からだの根強さを照らし出すところに置く
八百歳の金剛力士の全身にひびはしるひびにて呼吸するらむ(天満月)
(人間のからだは生きにくさうである)整体院にヒヤシンスの水(白き火)
またずっと冬だった、されど、だんだん春の声が聞こえてきたあたりか。
マフラーをほどきて風にさらすとき帆柱のごと首を伸ばしぬ(白野弁十郎)
梅内美華子は、そのからだの能動性を、このように表現して、それはそのままご自身の実像で、人間にかなわない自然に、おさおさ屈することはない。
そのからだは常人の及ばないセンサーがある

女童(めわらは)の黒髪ひかりまじなひのやうに草木に手を触れてゆく(まじなひ)
宇宙より地球のかなしみ見るごとく西瓜の玉を抱えてゐたり(同)
『夏羽』を読み返すこといくたりか、わたくし式守は、この二首をセットに、地中深くにからみあう何かをおもうようになった。
何かとはたとえば何だ。
ああ、そうか。
それは、たぶん……、
「ぎんなん」では
ないか
梅内美華子の地は、『夏羽』をいくたりと読み返すと、そこに、「ぎんなん」があることの、強い印象を持つが、この「ぎんなん」 への畏むべき心情が、雅ななかに凛としたありさまを顕ちのぼらせるのではないか。
不可避の苦味を受容する

あかつきあめひぐれあめ降るひとすぢの川が一日(ひとひ)を渡りてゆきぬ(白野弁十郎)
渇望といふものわれになきやうに夕顔の花しぼんで日暮れ(渇望)
たよりなげな空が一枚、ひらひらと落ちてきそうではないか。
されど、『夏羽』をここまで読めば、梅内美華子の「ひとすぢの川」も「渇望」も、すとんと胃の腑に落ちるのである。
短歌研究社の『夏羽』は、わが人生に、掛け値なしの傑作となった歌集であるが、梅内美華子に、現在のこの地を生き抜いてきた意気が常あることが、『夏羽』を読む都度、わたしをしばらくうつむかせる。