
目 次
超弩級迫力
無名人の、それも短歌のサイトは、要は、安い物件である。
有名人のブログであれば、
「カニ食べました~」
こんな一言が貴重な情報になる。
何を食べたか教えてくれてありがとう、となるわけだ。
くだらない連鎖が生まれたものだ、
と思っていたが、最近は、これを羨む。
わたしは、このサイトで、
この歌集を今すぐ読みたい、
となるように全力を尽くしている。
が、歌集の作者には申し訳ない限りであるが、そうなるチャンスはすくないであろう。
アタリマエだ。
その筆力以前に、わたしは、「カニ食べました~」の情報でありがたがられる存在ではないのである。
されど、すぐれた歌集を、未読の読者に届けたい情熱とは、これはもちろん嘘ではない。
今回の、砂子屋書房『サンボリ酢ム』も、相当の情熱を傾けた。
超弩級迫力を覚えられたからだ。
が、「カニ食べました~」より読まれることは絶対になく、それがいかにも無念、というわけである。
あ、本日のランチ、チキンカレーでした~。
福神漬けは抜いてもらいました~。
<インスタ映えの画像なし>
もう目を離せない

捨てたのはわたしのはうだ捨てたのはわたしのはうだ捨てたのだ(王様を捨てる王妃のものがたり)
こんな風に考えること自体は誰にだってある。
こっちからおことわりだ、とかそういった自己防衛。
そのような一首として読んでみて、これは、一読しただけで読み捨てられない迫力がある。
<わたし>は、これまでの人生で、自分が人から躱(かわ)されることがあれば、都度、このように相手を一断して生きてこられたのか。
なぜそう思ったか。
この一首は、あたかも呪文のようではないか。これまで人生でこう唱えたことが何度もあったかの。
ありていに言えば、傷ついて生きてきた。
こめかみの痛む朝からくるぶしの軋む夜までほとほとひとり(はじめてひととつなぐ手のごと)
「くるぶしの軋む夜」があるのは、日々の運動量の問題かも知れない。
言ってみれば、整形外科の領域である。
が、「こめかみが痛む」のは、身体の問題だろうか。
つまり、ある種の心因性ではないのか。
そこに立ち入ること大きなお世話でしかないのは承知しているが、それは、こういうことなのである。
きんいろの画鋲で留めるいちまいの半紙やぶれて私刑(リンチ)のごとし(いろんな壜が)
こうも激しい心情を生きて身がもつわけがないではないか、と。
わたくしは過剰であると思ふたび欠落ばかりのひとばかり恋ふ(六本木から電車が違う)
このような危うさの自覚は、何かの獲得あっての故だろう。
日常から逸脱することへの偏執

返り血を浴びて昂る少年のエレクト きつと童貞だから(町田少年殺人事件)
少年の排泄物はたうたうと町田の町のそこひに流れ(同)
「排泄物」とは、少年の白い体液のことか。
薄汚い。
どうせなら訪問前に排泄しておけばよかったのだ。
こんな事件は起きなかった。
とは言えまいが、かつて少年時代があった者としては、そうも思わないではいられない。
これは捨て身の発言であるが、
少女のことを脳内だけで凌辱して排泄をしておけばよかったのである。
少年であれば、それは誰にも、たやすい技である。
しかし、少年が片手に握ったのは、凶器だった。
たかが工業高校のマドンナ殺されてその「たかが」にある悪意(同)
ああ、
選ばれないことをのみこめない理性は、選ばれたい凡情にいともたやすく駆逐されてしまった。
少女には生まれついての「残酷」といふオプションがついてゐるのに(同)
少女はおおかた、自分を好きであろう少年を実質、嬲っていたのだろう。
相手にしなかったのである。
さしあたりそれは正しい判断である。
が、嬲るにおいて加減をちゃんとしたのか?
……?
まずい書き方か。
これでは、相手にしないの「しない」を、もっと上手にできなかったのか、あたかも少女の非を打ち鳴らしているかだ。
そうは言っていません。
報道では、錯誤と疵曲が避けられない。
が、少年と少女であっても歴とした男と女の話であることは、間違いあるまい。
ただラブコメにはならなかったのである。会えばいつもケンカのふたりがお互いをほんとうは好きだとわかる物語ではなかった。
田中槐は、歌を、ここで、琅玕のようにつややかに並べておられる。
いいのか、それ。アウトじゃないか。
いや、事実、少年が少女を殺した、あるいは、少女が少年に殺された、そんなことで青春がつややかに発光したんじゃないのか。
刺し傷は喉(のみど)に深く、深く、深く あなたは言葉を失いなさい(同)
雑踏を彷徨ふ血塗れ少年を、あの雑踏が呑み込んだのか(同)
このあたりになると、式守は、しばらくうつむくことしかできなくなる。
短歌には、このように意匠を凝らすことで、気がつけば、読者をのみこんでしまえる、そのような<わたし>もあったことに。
短歌の世界の<わたし>たちよ

短歌界で議論されている、社会相を背景にした、近代から現代への、さまざざな<わたし>の、その異同を、実は、わたしのおつむでは理解できないことがある。
卑屈になってそう言っているのではない。
このテーマに興味が尽きないことでは人後に落ちない自負はあるのであるが、いかんせんカチリと頭に収まってくれないのだ。
ただ、こうは思う。
北風が吹いた/夕暮れ
遠くを踏切が鳴っている
という孤独
北風が吹いた/深夜
おでんを買ったコンビニで
男性店員のピアスが眩しい
という孤独
どっちがいいとかわるいとかっちゅう話ではない。
こんな風に見える、っつう話である。
そして……、
多様に見えて実は同調圧力に喘いでいる、この国の<わたし>像は、ここにある薄汚くもしかしつややかな光景で、もっと揺さぶられるがよい、と。
倒錯した華やかさ

この世から寒がりひとり抹殺し陽にさらさるるぬくき歳晩(正しい飯島愛の死に方)
この豊かな国は、おおかたは平凡でも衣食住はちゃんと足りている国は、高級マンションで寒がりな女性がいることなど想定していないのである。
されど、田中槐は、歌人だからか、それが個としての資質なのか、一驚して終わりにすることを自身にゆるさなかったようだ。
この一首は、次のような詞書がある。
映画に行って、コンビニとツタヤにイッて、お薦めのおにぎりとお薦めのDVDを借りて、汚れた心を洗いながそう。20081123
<飯島愛ブログ「飯島愛のポルノ・ホスピタル」から引用されている>
このような言葉は、その後となっては、どれも飯島愛の死に収斂されるようになってしまっている。
飯島愛でないにしても、死者の言葉は、たとえば「カニ食べました~」どころではない情報価値の高騰をもたらす。
されど、田中槐は、その程度のカラクリに支配されないのである。
もっとも支配されているようでは、ここに短歌など要らないだろう。
「寒がり」はただひっそりと「抹殺」されたのだ。
目の前を半裸の少女駆けてゆく飯島愛の死を知らぬまま(同)
この「半裸の少女」とは誰だろう。
グラビアアイドルか。あるいは、(男性に人気の)AV女優か。
だが、飯島愛的悲哀は、ここにはない。
飯島愛的悲哀がまた生まれかねない性産業への嫌悪か。
町の安全のために未熟な少年が排泄するための存在価値を認めてか。
田中槐は、飯島愛の死など知らないであろう、知ろうともしないことを怒っておいでのようでもある。
それはそれでいい、と安堵のごようすでもある。
床暖房(ゆかだん)にあたためられてゆるやかに朽ちてゆきたり大久保松恵(同)
飯島愛になることの恐怖、飯島愛にならないでいられる僥倖が、ほどけない毛糸玉のように目の前に転がった。
『サンボリ酢ム』の<わたし>は、幸福を信じていない。
灰かぶり姫もまもなく気づくだらう格差社会に生きることとか(サンボリ酢ム)
再生の灰のなかよりうるはしく声ふるはせて、サンドリヨーン(同)
田中槐の自己規定

内側に緋色を貼りし日傘もてけふは真夏と闘ひにゆく(女ですもの、闘ひますわ)
「けふは真夏と」?
別の日は別の敵がいるらしい。
どうもお肌の美容のためだけでもなさそうだ。
なぜ闘う。
女だから? 美容の大敵以外の敵と?
誰? あるいは何?
十進法で「好き」と言ふのと「二進法」で言ふのとの差をくちづけで言ふ(いちからじふまで)
ひいふうみいとこつこつ愛をささやくようにキスをするのも、1の次は10であり11となって次はいきなり100になり101になる、そのようなキスもまたあろう。
いずれにしてもキスの主導権は<わたし>の方にあるようだ。
鎖されし扉の向かうていねいに傘を畳んでゐる女をり(雨女、道に迷ふ)
おもしろい。
いる。
こんな女の人がたしかにいる。
わたしはめったに気が散りません、なんて風情の女の人である。
田中槐的女性ではないようだ。
「鎖されし扉の向かう」は、田中槐的女性が生きられる世界ではないようだ。
大きなお世話であるが。
それが歌作動機かどうかは知らない。
復路かもしれぬと思ひゐたりしがまだ坂がある この先は闇(長袖の恋)
誰かを好きになる茫洋たる中心に、田中槐は、何度も何かを塗り重ねる。
そうこれはもう、挑むように。
なんと剛毅で磊落な。
「この先は闇」だって怯みはしない。
『サンボリ酢ム』の<わたし>は、誰よりも幸福を焦がれておられるからではないのか。
数学者の美しき手にてほどかるるたつたひとつの問いになりたし(数学者の美しき手)
自分=<わたし>=田中槐

現代人は「カニ食べました~」の文化の中で驚きを求める力が衰えている。
が、「カニ食べました~」は、人類の、新しい言語文化でもある。
この言語文化が、今後、どのように発展するのか。
この文化の創成期を、後世は、どのように評価するのか。
それがいかなるものになっても、
その一方で、
少年の排泄物に胸を痛める歌人が、現代短歌には、存在しているのである。
この世の、あるいは人の、ただただ無情な変相に自覚的に接近する歌人がいるのである。
意匠を凝らして。
新しい意匠に果敢に挑戦して。
わたしは、とりわけ次の一首を愛している。
ローソンの前の公園ぬばたまの闇をうすめて揺るる鞦韆(シウセン)(コンビニライフ)
現代は、公園は、コンビニの付属である。
コンビニは、公園の一部になる。
あたりは風が吹いてる。
なんてかなしいブランコだろう。
闇にほのめく香りを詠った、わたしは、田中槐のこんな歌も大好きだ。
頭痛は悪化していないだろうか。
あたりはもう風が吹いているだけ。
わたくし式守は、想像しなければならない。
このような風に、田中槐が、来し方に、どれだけあたってきたのかを。