
母であること

眠られず地球真裏の午後二時の娘にライン短く送る(吾の蝶々)
「眠られず」と。娘は、「地球真裏の午後二時」の上。
南半球のどこの国かにもよるが、日本は、深夜の、やはり二時あたりか。
「午後二時」であれば、娘の睡眠の妨げにはならない。しかし、心配はかけられない。「ライン短く送」った、と。
母なる者はなべてそうなのである、と言ってしまえばそれまでであるが、歌集『あをぞら』の<わたし>は、子に、幾重にも愛情が層をなしている。
娘であること

一方、<わたし>の母のこんな一首もある。
糸切狭をちよきん鋏と言ふ母をふと思ひ出し黒き糸切る(溜め息)
日常の暮らしで、いくつになってもひょいと親の顔が現れることがある。それはほんとうにささいなことである。
「黒き糸切る」結句に「ちよきん」という音が耳に聞こえてくるようだ。
今は娘のいる母が、かつては、そして今もまだ娘でもある当然。
命の途切れることはなく。
マトリョーシカの抱擁なのである。
親と子の原型

握り返す三千グラムの赤子の指愛しきものを吾も持ちたし(秋空)
「三千グラム」とあれば、ああこれは、たった今生まれた子の一首か。
「握り返す」の初句に母になった万感が込められる。この指を「吾も持ちたし」と。
「愛しきもの」の、これまでの人生にない、あるいはこれ以上はないことの定義にも錯覚する。
いや、錯覚ではないだろう。人類に最も価値ある瞬間ではないか。
父となり母となりたる十日目の夫と吾とが娘の寝息聞く(産声)
ご夫婦お二人に子が加わった。
「十日目」の腰の句によって、パパとママの幸福に寝息が包まれている姿が目に見えるようである。
夫婦がこれまであつめてきたものよりもっと大きな、またもっと深い歴史が、これからはじまる。
幼女の踏み出す足を夫とわれ離れ待ちをり初めの一歩(初めの一歩)
これから無数に歩むことになる、その一歩目を、夫と<わたし>は、このように見つめた。「離れ待ちをり」と。見守っている。
ここに描かれていないわが子の名を呼んでいよう声が耳に聞こえてくる。そして、たどりついたわが子を抱きあげたであろう。
やがて南半球と日本の距離で母が娘を見守ることも、畢竟、原型はここにあるのではないか。
母であること

抱きても泣き止まぬ子を腕より落とさむ狂気を吾は恐るる(伊予柑)
「泣き止まぬ子を腕より落とす」がないように人類は進化した。
そのようにプログラムされてもいよう。
が、プログラムというのは、誤作動が不可避である。ここで誤作動、すなわち「狂気」があれば、わが子はどうなる。自身に制御を課す<わたし>であった。
およそ文学たれば、幼いわが子の母である歌も、牧歌的なものばかり並ばない。
逆光に遊べる子らの声透り影絵の如く吾に手を振る(花びら)
母の目に、子が、影絵になってしまった。が、子は、「手を振」ったのである。
この著しい対照が子の<わたし>の存在を際立たせる。影絵となっても、子は、母なる<わたし>の場所を間違えることはない。
親なるシルエットは、それ全姿で、純潔の愛である。
頭一つ吾より高き子が菓子を食べていいかと確かめに来る(小さき風))
おいおいおいおい、何なんだ、この無限に愛しい存在は。
ダメ、と言ったら、シュン、となってあきらめるのか。
そんなことはないだろうが、「頭一つ吾より高」くなったのに、さしあたり許可を求めに「来る」のである。
愛しさここに極まれり。
冷蔵庫に熟しゆく桃一つ修学旅行より帰る娘を待つ(桃一つ)
「修学旅行」がいかにたのしいイベントであっても、娘には帰るべき家がここにある。
家とはわが身に還れる場所だ。「修学旅行」とはもとより母の負担が減る日々ではない。
ということが、この家の冷蔵庫でわかる。
「冷蔵庫に熟しゆく桃」は、よく冷えて、おいしさが保たれている。この桃こそ母そのものなのではないか。
冷蔵庫はもう、家電というただのカナモノではない。
返信来ぬ息子のメール待つ夕べ玉葱の皮剝きても剝きても(足元)
「玉葱の皮剝」くことで涙があふれていたのであろうか。
「玉葱の皮剝」いていたからばかりではないのではないか。
「剝きても剝きても」の結句に、待てども待てども、息子は、時空遠くにあることが想起される。
母から電話がくる体験をわたしもしたかった。また、その折り返しを怠る体験をしてみたかった。
そんな筆者に、<わたし>の手にある玉葱は、目に痛い。
夫婦の健全な負い目

夫の給料二割カットを前にして吾の無能をつくづく思ふ(青蛙)
なぜ「無能」となる、と思うおめでたい人もいようか。
すばらしい気組みではないか、と筆者(式守)には読めるのであるがどうか。
これを一期の浮沈の難局とまでは言わない。
言わないが、しかし、非常事態ではあろう。
こんな場面で、自分に健全な負い目を持てば、相手に、いたわりが生まれるものなのである。そのいたわりが相手の身に円滑に巡れば、相手の人生は、再起が必ず保証される。
という人間観を式守は持っている。
事実、ほれ、こんな光景が生まれたではないか。
窓際に指先の棘抜きくるる失業中の夫はやさしく(振り子)
家族の『あをぞら』

ここまで読めば、次の三首は、いっそうの味読が可能になる。
テレビ囲む家族らを階下に置きながら吾も机も静かに冷ゆる(空の道)
テレビの音家族らの声より逃れたる二階静かに夜気に満ちをり(黒揚羽)
頭痛病む二階の吾に片づけを誰がするのかジャンケン聞こゆ(春一番)
この家族のメインフィールドは一階にあるらしい。
<わたし>は、「頭痛病む」ことで「二階」にいる。
されど、一階は、違和なく営まれているのである。
<わたし>に「頭痛」があれば、じゃんけん大会が始まる混乱を招いてはいようが、母の快復を待って、それまでは放置してしまうことはしない。
できるわけがない。
そんなことできるわけがないように家庭は築かれていたのである。
著者であり<わたし>である田名網順子さんの力に与るところ大あってのことであろう。
さて
ここで
一階の家族に、「二階」の<わたし>は、『あをぞら』だった、と読んでみるのはどうか。
空(二階)が曇っていれば、家族は、二階(母なる存在)が『あをぞら』になるのを待つのである。
そのように筆者(式守)は、この歌集を読む。
どうだろう。
家族のセンサー/母の聴覚
『あをぞら』の<わたし>は、家庭を築く過程で、聴覚が鋭く研がれたようで、次にそのあたりを
台風の逸れて明るき空となり小雨と蝉の声の重なる(音叉)
看護師の静かに急ぐ足音が消えたるのちも耳に残りぬ(やがて緑に)
撥ねを上げ車過ぎ行く音を聞く真夜中の雨に頭冴えをり(桃一つ)
何処よりか電話の音が聞こえ来る中々切れず日曜の朝(花の息)

家族を守るにおいて、不穏なものがあれば、これを排除しなければならない。
<わたし>に選ばれた“不穏”のセンサーは耳だったらしい。
五人分の衣類収めて新しき洗濯機の音静かに回る(猫)
異常なし。
娘であること

思ふよりすばやくティッシュに捉へたる蛾を柔らかく母は包めり(皇帝ダリア)
「ちよきん鋏」の母は、このような所作の女性だった。
「すばやく」されど「柔らかく」。
<わたし>は、こんな女性の薫染を享けて長じたのである。
吾の言葉に潜む苛立ち感じ取り母は瞼を伏せてもの言ふ(鱗雲)
「ちよきん鋏」であり、「すばやく」であり、なのに「柔らかく」のお人なれば、どんなに老いても、相手が娘であっても、相手の心に敏捷になれるようだ。
<わたし>は、母に「苛立ち」が伝播してしまった。が、隠してはいた。隠してはいたが、「苛立ち」ばかりは如何ともし難いものなのである。
だから、ほれ、この一首は、読み返すほどに、淡い諦念に縁どられていることを知る。
「瞼を伏せて」の措辞は、最適の場所に斡旋されている。
夏蜜柑実りたる枝を遠き日の記憶の中の吾も見上ぐる(花びら)
老いし親に元気な吾を見せたくて駅の鏡に紅引き直す(男体山)
おかへり

おかへりと言はれてどこか面映ゆし母住む家はやはり吾が実家(さと)(鱗雲)
<わたし>は、母であるにおいてだけでなく、母の娘としても、幾重にも愛情が層をなしていた。
おかへり
この「おかへり」は美しい。
娘としての自分と既に人の母であることが交差したのである。
淡水と海水が混じり合う汽水域のように優しく揺らぐ境界線がここに表現された。
家族のセンサー/母の視覚

緩和病棟に父を残して帰る夜吾が影法師灯りに歪む( 父の死)
非日常になれば、日常では隠れていた景色が現れる。
結句の「歪む」は、ご自分の心を写していて、されど、実景でもあるのではないか。
鳥ばかり自由に見えて草を引く中腰のまま空見上げをり(大丈夫)
観照を失わないで生きていれば、自分がいかに小さい存在かを知る。
されどその認識が、『あをぞら』を生み出し、家族の“一階”を生み出したのではないのか。
と読んでみるのはどうか。
『あをぞら』の著者は、ご自分の人生の条件を、暗室に這わせはしない。
生きづらいとやらの歌が猖獗を極めている現代短歌であるが、著者の田名網順子さんは、世上どうとでもなる絶望の歌は、『あをぞら』の中で一首も詠んでいない。
何に勝つつもりか吾は北風に負けるものかと自転車を漕ぐ(北風)
燐家の犬

『あをぞら』には、時折、動物たちの点景がある。
これが、読み返すほどに、あたかも著者を愛する妖精たちにも目に映るのである。
この川を故郷と呼ぶ子を産まむ渡良瀬に立つ白鷺一羽(白鷺)
子どもらに忘れ去られしハムスター吾の気配に巣より現る(ハムスター)
皮膚病に長き茶色の毛を刈られ燐家の犬吾に尾を振る(黒揚羽)
自転車を出せば弱りし脚に立ち隣の犬が歩み寄りくる(花の息)
白鷺であり、ハムスターは、ひょっとしたら燐家の犬になっていたのではないか。
そして、『あをぞら』の読者、たとえば筆者(式守)になったのではないか。
事実、ここに、式守なる読者は、すっかり燐家の犬に憑依されていて……、
予備校より十時を過ぎて帰り来し息子に隣の犬が吠えをり(溜め息)
息子には吠えてしまうのである。
それはそうだろう。
お母さんにちゃんと返信しないからだよ~。だめだよ~。
男子~。
お母さんをたいせつにしようね~。
ここでフェミニズムに踏み込むつもりもないが、強要された母性などまことにごめんであろう。男子に、強くあらねばならぬ呪縛がごめんなように。
ありていに「男は泣いてはいけない」の男らしさとやらから解放してくれないかと早く大人になることを猛烈に待っていた。
されど、この『あをぞら』の著者の田名網順子さんは、その母性は、強要されたものではない。
人に言えないごくろうがどれだけあられたことか。ただただ一人の女性としてクオリティを高めた尊いものだったと思われるのである。
母の役割の奥に隠された瑞々しい輪郭を歌に描いて、『あをぞら』は、もはや神秘とも思える一冊になった。





