
目 次
独立心

洗はずに持ち帰る服ちちははの晩年に食ひこみすぎぬやう(田口綾子)
短歌研究社『かざぐるま』
(ただいま)より
この判断の、いかにも聡明なあり方が、わたしを、『かざぐるま』の<わたし>から目を離せなくする。
迅速ではない。果断でもない。加減がよい。
ただただふるさとへの、ひいては「ちちはは」への、娘としての感情が、巧みに包まれている。
ただいま

玄関に鞄を置いて振りかへり新聞受けの錆におどろく(ただいま)
靴箱にわが位置はなくサンダルは長靴の陰に揃へて置きぬ(同)
ふるさとに流れていた時間を肉眼で見せられた。
時の経過は、自分を、そこに常住していない顔にした。
コンビニで切手購ふ生活にふるさとからの風吹いてゐる(ゆきだるま)
ふるさとを顧みない<わたし>ではなかったのであるが。
ふるさとの母を忘れるわけはなく

今日、荷物送りましたと打つ指の(母そつくりの)ささくれだらけ(あか)
立ちすがた母に似るらむキッチンにほんの少しの湯を沸かすとき(ゆきだるま)
ふるさとから離れていても、親が、どこかでひょんな拍子で顔を出すことがある。
<わたし>は、母とは、基本、良好な関係であることがうかがえるが、たとえば次の一首は、血液的な相克をさりげなく叩いた秀歌ではないだろうか。
別に期待してないけど、と言はるれば怠る今日の手洗ひ・うがひ(あか)
荒んではいない<わたし>

炊飯器 抱くにちやうど良きかたち、あたたかさもて米を炊きたり(居室点描)
すべからく前進すべし掃除機とわれの主従は廊下へ続く(同)
家電詠として味読するのもたのしいが、この『かざぐるま』においては、<わたし>が、何も荒んだひとり暮らしをしてはいないことに、田口綾子の<わたし>の設定の加減のほどよさに、ますます好感を持てるのである。
誰からも見られざる日を内側の線までお湯を注いで過ごす(さるすべり)
<わたし>は、荒んだひとり暮らしをしてはいないが、でも、母の目が行き届かなければ、カップ麺ですましてしまう食事もある。
母も、そのあたりはちゃんと見通していて、「期待していない」となったのであろう。
もっとも、自己管理の責任において、<わたし>も、もう子どもではないが。
ふるさとから離れて決意

祖父は知つてゐたのだらうかさるすべりがあかくもしろくも咲くといふこと(さるすべり)
<わたし>に、ふるさとは、もう亡くなった祖父が愛してくれた土地でもあった。
祖父を亡くした痛恨を虚空の「さるすべり」に任せる、これは、挽歌の、わたくし式守が愛している一首である。
しかし……、
祖父と同じ名でわれを呼ぶひとの次々就職したり 東京(同)
大都会東京で、<わたし>が、デラシネでしかないことを、否応もなく突きつけるのもまた、ふるさとであった。
貰ひ手もなきあはれなる娘とふレッテル、寧ろ掲げて過ごす(その他)
短歌の修辞としても、実人生の決意としても、この「寧ろ」は涼やかである。
しかし、傍目には涼やかでも、この決意では、まだ、将来への逃避と抱き合わせでもあった。
成長への念願

たまごとは生(せい)とやいふべき殻の外のこの世に逢はざるものばかりなり(ぐでたま)
選択肢それぞれに舟、どの舟も乗らば大きく傾かむ舟(さるすべり)
いのちの芽を伸ばすのに、「この世に逢はざるもの」こそがたいせつであろうに、<わたし>の内面は、狂おしいまでの焦燥に満ちているようである。
<わたし>の「生(せい)」を「たまご」に、<わたし>を、その殻の中に。
この人生の先を「舟」に、どの舟に乗ろうと「大きく傾」いてしまうと。
日ざかりのそらのやうなるいろ見せてほのほはおのれのほのほを焼けり(Kinmugi Blue)
よって、外界の火は、<わたし>に、かくも麗しく目に映ることになる。
<わたし>は、「日ざかりのそらの」下で、この身を愧じるのである。
「おのれのほのほを焼けり」と。
されど……、
群れから離れて、「ほのほ」を、このように凝視する姿こそが、青春の美しさであり、短歌が青春と親和することを、ここで、改めて理解できないだろうか
きさらぎは短く

目覚まし時計を止めむと伸ばす片腕が助け求むるかたちに似たり(HELP)
生くること望まざれども携帯電話(ガラケー)のアラーム鳴り続けて五時に起く(たましひに寝る)
<わたし>の朝は、常、こういった調子である。
性を問わず、どの時代も、ありふれた型として、このような朝はある。
しかし……、
将来を嘱望される歌人ともなれば、これを、「助けを求むるかたち」によって、逆に、「生くること」にいっそうおいやられてしまう、との表現を生み出せるようだ
殻の中なる日常のしづかさよなんにもしらぬなんにもいらぬ(ぐでたま)
性を問わず、どの時代も、ありふれた型として、若者は、時に、このように身を潜めてしまうことがある。
わたしは、<わたし>に、過去のわたしを重ねてしまう。
それでいい、と思う。それでいい。
しかし、「殻の中なる日常」は、真の日常ではない。「殻の中なる日常」にあっては、自分の人生を変えることなどできないのである。
それを判じ得ない<わたし>でもあるまいが。
何よりも、いつまでも「殻の中」にいることを、人間の大地が、許さない。
水仙のうつむき深く立つ

きさらぎは短く終はり水仙のうつむき深く立つ日々をゆく(花ふぶき)
ものがたりにやがてをはりのくることを青空のブックカバーにくるむ(Kinmugi Blue)
わたくし式守が、田口綾子の『かざぐるま』において、これは、ことに愛している二首である。
「水仙の」地中深くにからみあう何かは、<わたし>を、未来へ送ったようだ。
そして、<わたし>に、あたらしいものがたりを慫慂するのである。
自分だけの花をこの土壌に咲かせることができるかどうかは、<わたし>次第であろうが、やがてその花粉を散布することは信じられる。そのような歌集でもある。
少なくとも、いま、不安も非難も愧じも、そんなものはもともとなかった顔を見せられるだけの大人になったではないか。
短歌研究社「かざぐるま」は、誰もがたのしめる、傑作の、青春の歌集である。