
目 次
女御

「女御」の読み問へば「おなご」と答へゐて一枚めくればそこには「あねご」(田口綾子)
短歌研究社『かざぐるま』
(ぬねり)より
田口綾子の『かざぐるま』に、うすらバカな男子が、ちょいちょい登場する。
<わたし>は、高校の非常勤講師であるが、頭が下がる。
わたしは、<わたし>に、ほんとうに頭を下げる。
こいつらは、ほんとうにうすらバカで、わたしもまた、かつては、こいつらだったのである。
「女」一字を読むのにこうも柔軟性を欠く
うすらバカの指数をこうも競い合ってしまうのは、採点をする教師が、女性であることも手伝っている。
なに、
女の子のスカートめくりをする頃から精神年齢が上がっていないのである。
性的対象にされてしまう女子の羞恥(にとどまらない)を、男子は、まだ理解していない。
カノジョがゐない

それはいい質問ですが脚注を見ないおまへにカノジョがゐない(今日の男子校)
下句が倍速になるように、語彙が、斡旋されてる。
これを、教壇で、<わたし>は、実際にそう言ったのか。
職業倫理として、そう言いたくても、実際には言えないのか。
どんな質問だったんだろう。
どんな脚注だったんだろう。
忍ぶれど色に出でにけりわが恋は物や思ふと人の問ふまで(平兼盛)
東京書籍『新編古典B』
<注>色 顔色。表情。
「小倉百人一首の世界」
(あんの秀子)
平成31年2月10日発行
ここに詠まれた気持ちの、うすらバカこそ、同じ痛みを持てように、これを、現代語に訳すことはできないまま卒業してしまうのがおおかたである。
しかし、ここで、「色」の一字が目につくのが、おバカな男子である。
おい、色だってよ、色
もわわわわ~ん
うすらバカの指数は、ここで、勢いよく跳ね上がる。
式守「田口先生、この色は、女の色気の色と同じ色でしょうか」
田口「<注>に、「色 顔色。表情。」と載っていますよ」
(バカだ、バカだ、こいつにカノジョはぜって~いね~な)
わたしの時代だけじゃなかったのか、こんなおバカは。
ああ、かわいそうなうすらバカたち。
小学校から中学校に進むにつれて、女子は、どんどん女性らしい曲線をからだに描く。
男子も声が太くなり、また、髭が濃くなってもくるが、女子の、この曲線に、男子は、ほとんど焦りを覚える。
女子の成長に追いつけない。
人妻

万葉集の「人妻」なるにさつきからエロいエロいと騒ぎやまずも(今日の男子校)
忘れていたではないか。
「人妻」なんて、もわわわわんな言葉が、衝撃度マックスに近かったことを。
人妻、人妻、人妻、人妻。
もわわわわわ~ん
跳ね上がるうすらバカの指数。
今のわたしに、「人妻」なるは、洟が垂れていても驚かない年齢層である。
もわわわわんな存在になりようがない
田口綾子

非常勤講師(せんせい)に進級はなくさんぐわつの余白あたりをもぞもぞとをり(進級)
「さんぐわつ」に「余白」がある、との表現がある。
そこを「もぞもぞと」するしかできない。
素願がたっていない心情を、田口綾子は、このように詠むのである。
選び取られた言葉の尺と短歌の尺は釣り合っているが、吐き出された、内に蔵するものは、サイズが大きいことに息をのむ。
そのあたりは、どこがどう魅力だったかを、稿を改めて起こすが、さしあたって、田口綾子の『かざぐるま』は、<わたし>が、教師であるとないとを問わずに、この人生を迷っておいでである。
その背景あってのうすらバカたちだった。
そのような背景があってもうすらバカたちに向き合ってくれた。
結果、若い女性の非常勤講師としての短歌内生命体は、まこと気の毒なうすらバカたちと絶妙に交響することになった。
短歌としても、その実人生でも、「すばらしい」の一言に尽きる。
そして、うすらバカ
うすらバカもやがて灼熱の太陽に横顔を燃やす時は来る。
内になおあるもわわわわんから解放されるのはまだ遠い未来である(あるいは死ぬまで来ない)が、男たる性を社会の中で自覚して、男たる人生への覚悟を決める時が来る。
なに、
女の子はとっくに通過したことを、やっと通過するだけのことなのである。
が、将来へジタバタするこのバカは、「人妻」に興奮するバカとは、同じバカでも、バカの意味合いがもう違ってきている。
性的対象にされてしまう女子の羞恥(にとどまらない)を、男子に、真に理解する者が出てくる。
が、それでも、うすらバカは、精神年齢が、女性たちに追いつけない。