
目 次
ひかる/夜空に
どうしてもわたしの指のとどかない背中の留め金 夜空にひかる(鈴木美紀子)
コールサック社
『金魚を逃がす』
(何番目の月)より
留め金を留めてくれる人は、ご自宅にいなかったらしい。
その留め金ははずれたままの背中で、夜の外に出たのか。
この留め金に、光が生まれた。
なぜ「ひかる」のよ。
なぜよ。
なぜ?
次の一首も「ひかる」がある
ひかる/なまえは
声という幻肢はありぬ ひそやかに呼びかけるときになまえはひかる(なまえはひかる)
「ひそやかに呼びかける」お人は、ここに、ご不在である。
「幻肢」とはそういうことだろう。
<わたし>の背中の留め金を留めるべきお人のことか。
と、考えて拙速はないかと。
人は四肢を失っても、失われたそこに、痛みを覚えることがあると聞く。温冷を感じることさえあるそうな。
そこに不在の人の声に、この「幻肢」をあててみせると、『金魚を逃がす』の、そこに不在の人が、いかに<わたし>の人生に特別な存在か、その指数は、跳ね上がった。
なるほど『金魚を逃がす』になる

病室の花瓶の水を替えるとき金魚を逃がしてしまった気がして(金魚を逃がす)
歌集のタイトルは、この一首から採られたが、なるほどタイトルはこうなるのが最適かと。
『金魚を逃がす』の、<わたし>のお相手は、不在なのである。
逃げてはいない。
不在。不在。
不在
『金魚を逃がす』を、わたくし式守は、爪を噛むように読み進めたものだが、どうもこういうことなのではないかと。
お相手の実体が、どこかへ消えてしまうことはあろう。しかし、<わたし>の内には、常に存在している。が、お相手を忘れるくらい誰にでもある話ではないか。
とはいかないのである、鈴木美紀子短歌群では。
余人には些細なことでも、鈴木美紀子に、それは絶対的に許されないことなのである。
なぜ許されない。
なぜ?
今回、この記事では、そのあたりを探っている
まず「fire」/そして?
鈴木美紀子の『金魚を逃がす』は、巻頭に、まず次の一首がある。
「fire」がはじめて覚えた言葉でしょうヘレン・ケラーがわたしだったら(ヘレン・ケラーがわたしだったら)
ヘレン・ケラーに、水は、ありふれたものでなかったように、鈴木美紀子は、火が、ありふれたものでなかった。
「あなた」が、鈴木美紀子に、内にある火に、それは火という名前があることを教えたのではないか。
そして、火は、時に、人間の目に、その名の通りの姿に見せない。
たとえば金魚に見せる。
ぬぁんて読んでみるのはどうだろう。
この「fire」に続けて、鈴木美紀子は、留め金(ひかる)を詠んだ。
そして、巻末で、なまえ(ひかる)を詠んだのである。
『金魚を逃がす』の短歌群は、まず火があって、あとは「ひかる」にはさまれているのである。
「ひかる」にはさまれて

すれ違う風がわたしに気づけたら花の鼓動に生まれ変わるよ(花の鼓動)
内にある「鼓動」が増す。風によって。
自然界そのものではないか。内にある火もまた、自然界のそれと同様に、風によっていよいよ燃え盛るのである。
横殴りの雨になるため風よりもあなたの頬が必要なのだ(鞦韆)
内に燃える火は、これが消えることを、鈴木美紀子は、永遠に避ける。
なぜ避ける。
なぜ?
この火を消しては、鈴木美紀子に、もう人生は送れない、と読んでみるのはどうか。
事実、ほれ、「あなたの頬が必要なのだ」と詠んでいるではないか。
あなたの頬が必要なのだ
痛切な叫びにも聞こえてくる。
祈りにも似る。
祈り?
祈り。
これが「ひかる」の源ではないか
あなたの不在

これまでに経験したことのない雨量のごとく待ちおり あなたを(ひとつだけ足りない)
たとえばこんな局面で、<わたし>は、「声という幻肢」に感応すると思われる。
「声という幻肢」を覚えもしようか、と殊に思われる一首がこれか。
俯いてあなたの言の葉聴くときはLとRに分かれたる声(LとR )
「LとRに分かれたる声」との表現がある。
人の声はモノラルで録音された方が、本来は、明瞭性が高い。
しかし、ステレオ音声は、音質が違うのだ。ステレオ音声になれば立体感がある。
<わたし>は、このイヤホンの臨場感を、また立体であることを、いつまでも、いつまでだって維持しておいでなのであろう。
しかし、今、その声は聞けない。
あなたは不在なのだ。
不在
あなたはどこへ

ワイシャツの袖をくぐり抜けた手はもうわたくしのものじゃなかった(LとR )
「ワイシャツ」を着れば、あなたは、<わたし>のいない外に用事がある、というところか。ありていに言えば、その程度の話なのである。
しかし、『金魚を逃がす』をいくたりと読み返してみると、とてもその程度、とは思えなくなるのである。
けして美女と言えないご面相の女性にやがて崇高な美しさを覚えることはないか。
このワイシャツは、あなたが、あたかも<わたし>の不可侵な世界へテレポートしてしまうコスチュームにも目に映る。
でも、では、あなたはどこへ
北向きの恋に凭れて硝子へと耳打ちをした。恋しているの、と(窓)
あなたは北へ行ったのか。
北に何がある。
それより窓ガラスだ。
窓ガラスが、あなたとわたしを、ぴしゃりと遮断しているぞ。
おい、おい、おい。
空間的な「硝子」であるが、あたかもあなたとの時間をも遮断してはいないか。
鈴木美紀子『金魚を逃がす』に没入すると、そこにある短歌を、ただ短歌として追うことができなくなる。
そして
<わたし>がご自分の耳にこんな手当てをしているところが目に入る。
深々と耳にうずめた(あなた)って呼びかけてくれるはずの補聴器(息を)
で、(あなた)って呼びかけてくれたのだろうか。
くれていない。
くれていない、と思われる。
声という幻肢はありぬ ひそやかに呼びかけるときになまえはひかる(なまえはひかる)
待つ自分をまるごと受容する

どうしてもわたしの指のとどかない背中の留め金 夜空にひかる(何番目の月)
それを意図して読んではいなかったが、<わたし>に、発見することがあるのである。
<わたし>に、「あなた」は特別な存在である。
だから「あなた」のことを待てよう。
明日を待てる。暁を待てるのである。
この待つということを、<わたし>は、絶対的に放棄することがない。
待つ以外の選択肢を持たない。
う~ん
そりゃあ
金魚を逃がした気に
なることも
あるわなあ
待つこと実時間がどれほどかは知らない。
が、鈴木美紀子の『金魚を逃がす』の世界内で、待つ時間は、けして短いものではあるまいに。
でも、では、いっしょにいる時間は二人にないのか
あなたといる時間

あなたといる時間もなくもないのだ。
だが……、
珈琲のおかわりしようか降り始めの雨は汚れているというから(手のひら)
誰のために?
誰のために「おかわり」?
<わたし>のためを思ってなんですか、「おかわり」は、ということだ。
<わたし>のために、であれば、それは、<わたし>にうれしいお気持ちではある。
が、ご自分が雨に濡れるのがやなだけ、なんてことはないか。
と、思っては、この一首に水をさしてしまうだろうか。
<わたし>ご本人は、あなたといっしょにいられる時間が延長されたことに、ああ、よかったわ、となったのか。
所詮は、雨が汚いからよね、との落胆はなかったか。
心理描写がどうのこうのなど詮無い話であるが、鈴木美紀子の短歌に、紛れもなく意識の高い歌作姿勢を見るのは、たとえばこんな一首なのである。
それがなぜなのかいちいちわからないでもいいではないか、
とはいかなくなるのである。
一読者の、わたくし式守は、なぜ、この一首に、あなたによって<わたし>が満ち足りたのだ、と信じてあげられない。
しんしんとあなたを想えば星空は睡眠口座の残額のよう(あるいは、脱ぐ)
あなたはここで再び不在。
眠れない<わたし>は、その数を、星の数ほどに表現する。
あなたが不在の夜を星の数ほど経験する覚悟をここに見る。
火が、光が

読み返す。
しんしんとあなたを想えば星空は睡眠口座の残額のよう(あるいは、脱ぐ)
眠れないまま次々に思い出される浮船に乗って、<わたし>は、星空に、その身を明日へと運んでもらう。
内に火をたたえて。
それは祈るように。
どこかがまた「ひかる」かも知れない。
星。
しかし、その身は、痛みに裂かれるようではないか。
だが、鈴木美紀子は、ここに、倒錯した甘美を虚飾するようなことはしていない。
何かを表現することに潔いのだろう。断固たる覚悟がおありなのだろう。
すなわち、短歌という文学に誠実。
鈴木美紀子に、悲嘆の感慨のうちに光を見せるくらい、造作もないことなのかも知れない。