
目 次
短歌を退屈にしない金魚
病室の花瓶の水を替えるとき金魚を逃してしまった気がして(鈴木美紀子)
コールサック社
『金魚を逃がす』
(金魚を逃がす)より
「病室の花瓶の水を替える」場面で、<わたし>は、金魚を惜しんでおいでなのである。
あら、いけない、
そんな程度の心情ではあるまい。
結句の言いよどむ調べに、豊富な感情量が、溢れて零れていないか。
でも金魚って何よ。
金魚?
たとえば
こんな歌
口どけをひそかにたしかめあうような言葉の微熱おぼえてますか(花の鼓動)
時の経過によって、お相手に、<わたし>と同じだけの熱量が残っていないことを感知したのか。
それが事実か考え過ぎかは別として、このあたりは「金魚」につながっているものではないか。どうだろう。
また
こんな歌
きみは森 迷えば雨が降り出して木の実のような記憶を落とす(星の時間)
「きみ」という「森」の中は、<わたし>が迷っているのに、<わたし>の記憶は地に落とされてしまう。
<わたし>は、探してもらえないのか。
それが事実か考え過ぎかは別として、このあたりは「金魚」につながっているものではないか。どうだろう。
この歌集を貫く「金魚」とは何かによって、『金魚を逃がす』の短歌群は、退屈を覚えることがない
それは執着か

何回もドリンクバーに向かう背を見てはいけないもののように見た(星の時間)
<わたし>に執着がある。
見てはいけないもののように?
ありていに言えば、<わたし>といることがたのしくない、そのようにも思える時間にいたのだろう。
事実、お相手は、「何回もドリンクバーに向かう」ではないか。
そうと思えば、お相手の背が、たしかにそのような背にも見えてくる。
事実かも知れない。
お相手は、<わたし>といても、さしてたのしくないのかも知れない。
しかし、たしかにここにいる。若い子の初めてのデートの不安を詠んだものでもあるまい。
問題はむしろここにあるのだ。
たのしくないそのことよりも、たのしくないのにここにいさせている、との。
どうする<わたし>?
どうする鈴木美紀子?
どうする?
不安、不安、不安

待ちわびて髪をリネンのシーツへとハザードマップのように広げた(何番目の月)
なみだってやさしい出血なのでしょう冷え切った頬を撫でるひとすじ(やさしい出血)
<わたし>は、おひとりでおられる時は、こうもなる。
が、短歌としては、退屈を生まない。生みようがない。
髪をリネンのシーツへとハザードマップのように
そして
広げた、と。
広げた。
(なみだは)やさしい出血なのでしょう冷え切った頬を撫でる
そして
ひとすじ、と。
ひとすじ。
視覚的効果
「広げた」であり、「ひとすじ」と。
『金魚を逃がす』をいくたりと読み返して、歌集中の短歌のいくらかは、読者たるわたくし式守の頭の中で、あたかも映画のディゾルブのような視覚効果が覿面に現れてくる。
捨ててしまえ、とはいかない
そんな執着(と、決まった話ではないが)いっそ捨ててしまえ、とはいかない。
執着などこれでもう捨てる、と決意すれば、時間がそれを可能にしてくれる。
されど、<わたし>に、『金魚を逃がす』の著者に、それは絶対的に不可能な話なのである。
『金魚を逃がす』をいくら読み返しても、そのような決意は、どこにも詠まれていない。
ただの一首もない。一首も。
ほんとうにないか。
ない
逃れようにも逃れられない趨勢に、<わたし>は、「あなた」との激しい渦中で、その心身が揉まれる。

十一の風邪の症状に効くという薬が見せるあなたのまぼろし(滞空時間)
「きみ」であり「あなた」であるお相手の「まぼろし」が出現してしまう。
これは十二番目の効能ではない。
副作用でもない。
太田胃散でも同じことがある話なのである。
決意であればむしろこんな決意か
あなたからいちまい引いたトランプを胸に伏せつつ終える生涯(海を吸わせる)
カードゲームに負けた手札を場に捨てない。
(もちろん勝ちゲームの札でもいい)
「胸に伏せつつ終える」のである、カードゲームは。
これは「生涯」にわたっての行為である。
柩には入れてはならないものばかりきらめかせてゆく生と思えり(やさしい出血)
「柩には入れてはならないものばかり」とはたとえば何か。
ただ
「生」が終わることはない。
これでは「生」は閉じられない。
鈴木美紀子の芝居をこのまま幕は降ろせない。
結果、執着は、<わたし>に一生ついてまわる。
本稿の最初に引いた一首を、ここで、改めて引く。
病室の花瓶の水を替えるとき金魚を逃してしまった気がして(金魚を逃がす)
金魚とは、これをどう説明したらいいか、どなたかが心につけた火のようなもので、どなたとはたとえば「あなた」であるようで
忘れていたこと/言葉/水と火

「fire」がはじめて覚えた言葉でしょうヘレン・ケラーがわたしだったら(ヘレン・ケラーがわたしだったら)
ヘレン・ケラーは、ほとばしる冷たい水が、三重苦の中で忘れていた言葉の「水」であることを思い出した。この世界に、「水」という言葉があったことを、この世界は、言葉があることを思い出した。
アン・サリヴァン女史の愛によって。
<わたし>にも同じ体験があるのだろう。
ヘレン・ケラーにおいてはほとばしる冷たい水だったものが、<わたし>においては、「火(fire)」だった。
でも、それは、どなたの愛によって。どんな愛によって。
心音
心音を一番近くで聴いていたシャツの釦を芽吹かせたなら(なまえはひかる)
わたくし式守は、鈴木美紀子の短歌の、このような結句に弱い。
この一首では、「芽吹かせたなら」の、それも「なら」の2音である。

心音?
心音。
ご自分の?
違うな。
それなら特定のシャツでなくてよい。どのシャツのでもよく、その胸の釦でよい。
釦は、特定の(あくまで特定の)シャツの、それも下の方につけられていたものなのではないか。
その心音さえ
その心音さえ
あれば
<わたし>は、それはもう願ったことだろう。祈ったことだろう。
執着を捨てられるわけないじゃありませんか。
違うな。
捨てないでいい。
捨てないでいい。
髪をリネンのシーツへとハザードマップのようにしたっていい。
なみだに冷え切った頬を撫でさせたっていい。
それでいい。
それでいい。
しかし
「心音」が「シャツの釦を芽吹か」すこと、それは、もう無理だ。
「心音」はもうないんだ。
鈴木美紀子の舞台は、ここで、再びこうなる。
どうする<わたし>?
どうする鈴木美紀子?
どうする?
そんなことないよ/そんなことはない

そんなことないよと言ってほしかった夜空にひらく日傘は濡れて(手のひら)
夜。
「あなた」はいない。日中はごいっしょにおられた。
雨が降った。日傘を代用した。
そこで思い出している。
「あなた」にした質問を。「そんなことはないよと言ってほしかった」質問を。
「心音」の主がこの世に生まれ出ていれば、今は、結婚適齢期だろうか。あるいは、孫がいてもおかしくないかも知れない。
この世界の夫婦には、生れなかった子どもの歳を数える人生もあるのである。
それは不毛な行為。されど繰り返してしまう行為。
ほんとうは
子がいて
ほしかったでしょ?
わたくし式守の、これはもう大胆な仮説になってしまうが、歌集『金魚を逃がす』を繰り返して読むと、そうと推理をしたくもなるのであるが
人生の流れにしおり紐一つ

しおり紐はずさないまま貸したのは小説のなかで巡り会うため(ベトリコール)
栞を差し込んだ頁で、実体はそこにない<わたし>に、「あなた」は手を振る。
このご夫婦だけ特別の栞は、<わたし>に、ふだんは張り詰めた人生だけに、どこぞのご夫婦よりも百年にも千年にもまさる味わいがあろうか。
ある種の夫婦に、この栞の、なんと希望の持てる栞であろう。
「あなた」は、この栞によって、その胸も背も、そこにいない鈴木美紀子の閃々と光る火によって、火なのに水のように洗われることであろう。
ひったりと手錠の代わりに嵌められた腕時計にはいくつの歯車(ひとつだけ足りない)
「手錠の代わり」とはこれまた抜き差しならない腕時計である。
追いつめられている心理の詩的修辞なのか、あるいは、ユーモアか。
いずれであっても、「あなた」の縛りになっているもの、との印象を持つ。
だが、一読して気がつかないか。
「あなた」は、時計を外してはいないではないか。かつまた、<わたし>の本を読んでもおられるではないか。
金魚は逃げていなかったのだ。
金魚が逃げてしまった錯覚はこれからも避けられまい。望む応答を必ずしもしてはもらえまい。
しかし、鈴木美紀子は、『金魚を逃がす』に、逃れようにも逃れられないものをこうも収められる歌人なのである。
敬うに足る生き方だと思う。
敬うに足る歌人だと思う。
されば、こうも言えないか。
「あなた」も、どこかで、ほんとうは、<わたし>のまぼろしを見ていようことを。