鈴木晴香『夜にあやまってくれ』二人の愛を確かめ合う距離

計測できない距離が短歌に

誰かが一方の誰かに言っている、その気持ちを、詳しく説明していないのに感得できることがある。
でも、その感得は、当たり外れで言えば、外れなこともある。
外れでもいいのである。

(いや外れはやっぱりだめか)

短歌を味読するにおいてはどうか。
作者は、読者に、正答とか誤答とか判定などしない筈だ。

わたくし式守は、書肆侃侃房(新鋭短歌シリーズ)の『夜にあやまってくれ』が、これの当たりだろうが、外れだろうが、こちらを強く、まこと強く感得させてくれたことが、この人生に大きなよろこびを得られた。

鈴木晴香の『夜にあやまってくれ』を読むと、この世界の平面上の距離は、あやふやになることがある 。

そして、短歌に、改めて信頼を置く。

駅から駅は一定の距離

鈴木晴香『夜にあやまってくれ』

雑踏の中に通勤定期券 降りたことのない駅を結んで(暗号)

「使うことないけどもらってよ」七日間残っている定期券(滲むのは涙のせいで、見える世界に罪はない)

駅から駅への距離は、一定である。
アタリマエだ。だから「定期券」は、駅間の具合で、料金を算定できる。

ところが、鈴木晴香の『夜にあやまってくれ』を読むと、この世界の平面上の距離は、あやふやになることがあるらしい。

どの駅で降りても君に会えないと発車間際の和音は告げる(はるか)

時に、乗車することさえできなくなるらしく、

準急の過ぎゆくホーム太陽はとぎれとぎれに私を叱る(ここにとどまるために私は駅に向かう)

そして、電車に乗れば乗ったで、

君のいる街へゆっくり滑り込む先頭車両に揺れる花束((おやすみ、外部))

「先頭車両」に乗る。
さもありなん、か。

「花束」こそがむしろ冷静に<わたし>を支えているかの時空が、この一首に、美しく層をなしている。

動き出す窓から見えるどうしようもなくどうしようもない君の顔(どうしようもない)

「君の顔」が「窓」からやがて消えてしまう。
また距離が生まれた。おそらくまたあやふな距離になってしまうのだろう。

「鈴」に願いを

鈴木晴香『夜にあやまってくれ』

何なんだ、この通俗な見出しは。
しかたがない。わたくし式守には、「鈴」に願いを、との措辞しか出てこないのである。

レコードに針が落ちるのを待つような痛みと知れば痛みがほしい(貪欲な兎)

「レコードに針が落ちる」のが「痛み」である、と。
そのようにお相手が現れるのであれば、「痛み」などいくらだって味わえる。

ここでは「レコードに針」を引いたが、鈴木晴香は、詩に、短歌に、何でもないようなことを持ち出して、確実に、詩として、短歌として、これを、読者に味読させてしまえるのである

ところで

カラオケが上手な人がいるが、うまいなあ、ってどれほどの意味がある。
だけど、誰かのカラオケで知らずに泣かせてしまう上手はたしかにある。
鈴木晴香はどっちだ。

どっち?

悲しいと言ってしまえばそれまでの夜なら夜にあやまってくれ(夜にあやまってくれ)

歌集のタイトルは、この一首から採られたが、わたくし式守は、鈴木晴香はやはり、知らずに泣かせてしまうカラオケの方だとこの一首で思うのである。

だって、「あやまってくれ」って言われたって。
ねえ。
「悲しい」と言われても。
ごめんね。ごめんね。

そして

沈黙のみずうみにいる君のためドアが開くたび揺れている鈴(乞われるままの恋をしている)

これ、これ、この一首なのよ。
この「鈴」で、わたくし式守は、鈴木晴香に落ちた。
満たされなければ満たされないほど眼は冴えるらしい。

お相手に満たされないのはなぜ。
あ、いや、満たされない、と決まった話でもあるまいが、たとえばメールの返信ひとつを怠るお方なのか。

いる。いる
その手のおとこ

おれはまめなんだけどなあ
返信

短歌してるから~

「ドア」に「鈴」を、その取り付ける指たるや、いかにも冷ややかで、されど、式守に、炎も見えて、それは、徐々に不気味に美しくなった。

余人とは異なる雨

鈴木晴香『夜にあやまってくれ』

君が今どこかで濡れている雨がここにも降りそうで降らなくて((おやすみ、外部))

「君が今」傘はあるのかないのか、<わたし>は、把握しておいでのご関係である。
<わたし>も、傘は、持って出なかった。
それを降らなかったのであれば、ありがたいことではないか。が、それを、こともあろうに、<わたし>においては、いかにも無念のごようすである。

それはそうだろう。
また距離が生まれたのである。

君のいる世界に生きているなんて思えないよ それなのに雨(はるか)

嫉妬してください例えばこの雨が君に降らない雨であること(どうしようもない)

<わたし>の方にだけ雨である。
お相手も「雨」を覚えておいでか。

が、お相手が「雨」を覚えておいででも、<わたし>の無念は、そこで解決がつくことはあるまい。
熱量に差がある。

篠突く雨は竹林のさまになぞらえてのものであるが、ある種の人には、ここでは鈴木晴香には、誰かと地続きにあることを観念させる視覚になる。

二人の愛を確かめ合う距離がそこにあるのである。

かくして「雨」の歌は、少なくなく生み出された

反射的に距離を計測してしまう

鈴木晴香『夜にあやまってくれ』

もう一度(例えば恵比寿の改札で)振り向こうと思えば振り向ける(例えば恵比寿の改札で)

ついにすぐそばにいても距離を計測してしまった。
すげーな、この一首の心情のド迫力。

「恵比寿」もよい。
あ、いや、わたくし式守は、本来であれば、こぎれいな街が舞台の物語を好まないのであるが、これが、「蒲田」あたりだったら台無しだ。

「蒲田」は、「あんた、夜にあやまれ」と思ったらそれをそのまま口にしてもおかしくないひとびとが棲む。

(あっ、あたしゃ、この人生を、蒲田を愛して送っているのでこんな発言はゆるされるんです)

すましかえって歩いていても、内心では、たとえば「夜にあやまってくれ」とかつぶやくような舞台にふさわしいのは、やっぱり「恵比寿」あたりになるんじゃないのかなあ。

三つめの砂糖は溶けて四つめは溶けないそんな境界に来て(夜にあやまってくれ)

それは砂糖の入れ過ぎではありませんか。
という話ではありませんね。マグカップが大きければ「四つめ」だって溶ける。

鈴木晴香に、「境界」では、空間の認識も歪むらしい。

駅からの道は駅までの道になる言えないことを言えないままで(こんな春は(どんな春も)初めてだから)

いちど降りた「駅」をこんどはまた乗るために向かっている。
また距離が生まれた。

「言えないことを言えないままで」と。
「駅までの」距離は、内にある言葉のサイズが、手に余るサイズにしてしまうのである。

こどものように近景も遠景もなく

鈴木晴香『夜にあやまってくれ』

声はこの空気を揺らしているだけで鼓膜はずっと遠くにあった(満月に触れたらきっと冷たい、そういうこと)

初夏の君の笑顔に糸切り歯見えたらしんと冷たい世界(しんと冷たい世界)

「糸切り歯」をはっきりと「見え」るところに立った。
ここに「鈴」はもう要らない。「雨」に動揺しない。
アタリマエだ。距離がない。

ここは「しんと冷たい世界」とか。

この理を超えた体感が、人が人たる不思議である。
「しんと冷たい」ことが不思議なのではない。「世界」を「しんと冷たい」と体感できることが不思議なのである。
それを表現できるのが、たとえば歌人であり、ここにひとり、鈴木晴香なる歌人もそれが巧みなおひとりなのだろう。

式守は一読後、この一首を、ちりちりとした「性愛」の歌に読めなくもなかった。が、その読みを、たちまち取り下げたくなったのである。

なぜ?

恋には邪恋がある。悲恋がある。
いずれも、この人生に、それは断ちたいところのものである。
だが、その恋の実像がいかなるものであっても、そのような大人の判断はできなくなる。

そもそもそう思うことがない。
こどものように。

こどものように先のことも遠くのことも、そう、距離を失う。

距離を

好きな人とふたりだけの時間をやっと持てた時に、そこは、ふたり以外の音は生まれない。

触れ合える距離なのに

鈴木晴香『夜にあやまってくれ』

大切なことは小さな声で言う君の隣で目を閉じている(遠いというよりは静かな風景)

鈴木晴香の、これも、式守操くんの大好きな一首である。

人類は、文字の前に絵があったが、絵も、その前には音声があったからなのである。
進化の過程で失った、音声で訴え得るものを、いかに感受すればいちばんいいか、鈴木晴香は、先天的に判断してしまえるのだろう。

あるいは、人類とは、誰かを愛すれば、古代の血がよみがえる、とか?

呼び捨ててほしいと言えば黙り込む君と今夜はサーカスを見る(花火は、花と火でできているんだ)

これもまたある種の距離だ。

「サーカス」がたのしい。キャー、とか言っていたのかなあ。「ホラー映画」だったら確実にキャーとなるが。

映画の限界は、所詮は二次元であることだ。
「サーカス」であれば、三次元を、人が跳ねる。人間には無理な筈のパフォーマンスが目の前にある。

すなわち距離がある。

距離が

「やだ」
とは言われなかった。
望んだ回答はまだ得られていないが、距離を、健全に計測した瞬間である。

交番の前では守る信号の赤が照らしている頬と頬(頬と頬)

「信号の赤」が青になるのが待ち遠しい。
正しい距離がここにある。

わたくし式守は、ここで、交番の警官になってしまった……。

愛するふたりは

わたくし式守は、書肆侃侃房(新鋭短歌シリーズ)の『夜にあやまってくれ』で、しごく平凡な結論を得た。

愛するふたりは、畢竟、生きる営みを何度でも確かめあうことを。この世界はそのようにできていて、むろんこれが悪であろう筈がない。

この平凡な結論は、わがのこりの人生への心構えを強靭にして、『夜にあやまってくれ』を再読する夜を、今後も、失望することはあるまい。

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