
目 次
端的に
カーテンを開けて始まる一日の端的にここより一羽飛び立つ(阪森郁代)
短歌研究社
『ノートルダム』
(奇妙な家)より

「一羽」とは、<わたし>のこと、つまり著者のことであろうかと。
そして、「端的に」との措辞。「端的に」とは、文脈によってニュアンスは変化しようが、この一首においては、要するにとか、簡単に言えばなんてところか。
それこそ端的につなげられたこの下句は、<わたし>の姿を、「一羽」との表現はあっても、少しも美飾などしていない。しようともしていない。
歌人・阪森郁代とはこのようなお人である。身を巡る世界をこのように詠む歌人なのである。
では
歌集『ノートルダム』を全て読むと、<わたし>は、どんな姿に目に映るのだろうか。
「ここより」の「ここ」
読み返す。
カーテンを開けて始まる一日の端的にここより一羽飛び立つ
「ここより」の「ここ」はこんな場所である。
日は差して何をするにも事欠かぬ時間がすでに待ち受けてをり(奇妙な家)
朝からの煩はしさは片付かぬ部屋の種々(くさぐさ ) 日ごとに摘めど(メレンゲ)
このように表現されると、「ここ」はもう自然界か、とも思えてくる。
自然界とは実は単純な仕組みである、との認識が筆者(式守)にある。自然界の大きな体系は時間ただ一つだからである。
飛躍があろうか。が、誤ってもいまい。その単純な公理はこの一首に収められているではないか。平凡な日々の始まりと終わりの日常の中に。
されば、「ここ」に家具が新調されるとこうなるらしい。
慎重に運び込まるるテーブルのむしろ瑕瑾(かきん)のあらば馴染まむ (奇妙な家)
この歌もスキ
トポス

この場所をけふはトポスと言ひ換へて木肌のやうな背表紙に触る(鶲(ひたき))
「この場所を」ピンポイントで「トポスと言い換へ」て、詩の空間(あるいは哲学の空間でもあるか)とのカテゴライズがなされた。
「トポス」であろうと、何であろうと、そのようなカテゴライズがなされるのは、身を巡る世界はそれだけ混沌としている体感あってなのではないか。
そして、
「木肌のやうな」との感触が、読者に、手渡された。
四冊の詩集を代はる代はる読む母音しづかに灯りつつあり(鶲(ひたき))
この詩集は誰の詩集だ。あるいは何の詩集か。アンソロジーか、
ランボー詩集か。3冊セットの詩集なら知っているが。ランボーは母音に色を充てていたが、それのことか。
あるいは、日本語はとにかく母音が多く、ローマ字化すると住所一つが横に長くなってかなわないことがあるが、ここ「トポス」で、<わたし>は、日本語の詩歌を鑑賞なさっておいでだったという歌意か。
また、こうも思えた。
「ここ」なる「トポス」には屋根があろう。屋根のはるか高みに広大な瀑布があろう。星がしずかに灯っている天である。著者の手にのる詩集に小さな星が降っているとも思しき読書だった。そんなイメージもたのしくないか。
まこと知的にスリリングでたのしさ尽きぬ一首である。
冬の蝶はらりと過ぎぬ思想にも裏面(りめん)があると思つてもいい( 奇妙な家)
「トポス」で、「代はる代はる」本を手に取る果てに、<わたし>は、このような達観を獲得なさった。
思想を衣類のように。あるいはてのひらのように。
ところで
「冬の蝶」が気になる式守なのであるが……、
冬の蝶はらりと過ぎぬ思想にも裏面(りめん)があると思つてもいい
この世界は、この世界を統べる、人智を超えた働きがあって、人一人を思いがけないところに案内する。思想に裏面があると達観するところに案内したのは蝶であったのか。
というあたりを次に
司宰者

歩道橋の真下ゆくとき音もなく目にすれ違ふ青条揚羽(アヲスヂアゲハ)(どこかジャンヌに)
歌集『ノートルダム』を繰り返し読むと、著者の身の巡りに蝶を見かけること多く、蝶は、さながら著者の人生を見守る妖精のごとくである。
「歩道橋の真下ゆく」と。ふむ。歩道橋をわたるのでも、歩道橋の階段の昇り降りでもない。ああ、そうか。正面を向いて歩いている<わたし>に、むしろ蝶の方から寄って来たのではないか。
では、次の一首の「林檎」はどうだろう。
翳(かげ)りゆく部屋に林檎は冷たかり遠くの町は水に溺れて(モダンアート)
一日を終えようとしている時間である。が、「遠くの町は水に溺れて」いた。
地平に隠れた場所には、楽園もあろうが、ノアの洪水もあるのである。
たった今、この「部屋」には、「林檎」があるが、地上にアクセントをつける司宰者のようだ。人智を超えた存在として、ここでは、たまたま人の目には林檎に見えているかの。
次の一首ではどうか。
たまたま人の目にはランタンに見えているだけで、やはりこれも人智を超えた存在だとか。
と、読んでみるのはどうか。
またの日になどと言ひて苦笑する角灯(ランタン)の灯がどこかで点る (ランタン)
日暮れの謎

仮定形ばかりが目立つた会話でも日暮れとなればしづかなる野辺(三十三度の街)
「仮定形ばかりが目立つた会話」とはたとえば何だ。
お金持ちだったら。大きな病気にかかったら。人生レベルの仮定か。
もちろん明日は朝から雨かしらなんてこともある。
あるいは、世界に戦争がなくなれば。みんなが人にやさしければ。それがたかだか井戸端会議でもテーマが大きくなることはある。
されど、一日という時間は、大地に静けさを添えるばかりなのである。
昼と夜いくらか重なるところから吹いてくる風方位を乱す(奇妙な家)
「昼と夜いくらか重なる」つまり夕方になると方向感覚が鈍くなる、そのような趣旨の歌ではないだろう。いや、存外、正にそんな歌意をこう表現してみたのかも知れないが。
が、そういう解釈に着地するだけの歌だろうか。筆者にはそうは思えないのであるが。
こんな一首もある。
曖昧の中の確証やはらかき椅子にもいくらか慣れてきたころ(どこかジャンヌに)
『ノートルダム』の著者であり<わたし>でもある阪森郁代は、「やはらかき椅子にもいくらか慣れ」た。現在を小さく肯定した。肯定できた。が、ほんとうは何かしらの負い目を拭えないでいるのではないか。
曖昧とは何。確証とは何。それはわからない。が、確かなものを隠蔽する弊が人間にはないか。結果、どうなるか。進むべき方向が見えなくなる。人生は進退のやましさの連続なのだ。
この一首で、<わたし>は、ご自分の何かの不実行を愧じてでもおいでなのか。
そして
微熱兆す夕べとなりぬ底ふかき鏡いちまい傍らに置き(鶲(ひたき))
空より地

雲はまだ白きままなり黒ずんだ墓標のごときを見下ろしながら(三十三度の街)
「雲はまだ白きままな」れど、夕刻、人が足をつく地上は、こんな場所もあるのである。
色調に暗い印象がある場所をこう表現してみただけのことではあるまい。地球には、まことに「黒ずんだ墓標」とも呼ぶべき一地点が無数にある。
険悪な雲行きなれど鉄塔はそこを根城となして動かず (ノートルダム)
「険悪な雲行き」を背景に、「鉄塔」は、不便なく地上を生きる人々の負債である。
と、読めた。
昼の月切片(せつぺん)うすく電線に引つ掛かりつつ師走となりぬ(奇妙な家)
人間は科学を発展させた。鉄塔も電線も人間の努力の結果である。
しかし、大地を歩む人々は、治安の良さを今では誇れなくなったが諸外国よりは平和な筈の日本において、まことに幸福だと言えるのか。
歌人・阪森郁代に、どうもそのあたりを問いかけられている気になることが少なくない。
次はそのあたりの考察を
地より人

取り憑かれたやうに人は往き来する降りさうでまだ降らぬ重力(モダンアート)
気だるさは何処より来たる一本のさまよへる傘さして街ゆく( 音節(シラブル))
人々は疲弊しているのである。
「取り憑かれたやうに」と。
「気だるさは何処より来たる」と。
ささやかな夢さえ描くべくもなく雨の縞に、人が、傘を重ねている。
切り株をもう何年も見てゐないそこにつばさを休める人も(音節(シラブル))
ほれ、
このように。
そして、
<わたし>は祈る。
真白なるシーツを腕に手繰り寄す奇妙な色の雪の来る前(鵙は鳴かぬよ)
天と地の騒ぎを鎮めるように「真白なるシーツを腕に手繰り寄」せてみる。
が、無益。
無力を観念するしか待っているものはない。
真あたらしき雪の白さも遠ざけむ何かを予見できるものなら(カードキー)
つまり「予見でき」ない。
結句の「できるものなら」を縁どる淡い諦念に、読者は、胸を塞がれる。
暖かく雪は降りつつ窓のうちがはに包帯解(ほど)かれてゆく(紫煙)
地に落ちる雪はどうやら穏やからしい。
ここは、戦地、あるいは紛争地の一角か。雪は人類に仇なすばかりではない。
あるいは、「窓のうちがはに包帯解(ほど)」く」のは、あくまで<わたし>で、どこかケガでもなされたか。自宅ではわが身に還れる。
あるいは、それはもう大胆な仮説でしかないが、傷ついた心臓に包帯は巻かれていたのかも知れない。
亡き人もそこにはゐた

亡き人もそこにはゐたのだしばらくの午睡の後は上(うは)の空(そら)なり(カブール)
一読して式守は戦慄した。
この一首は、その時空に、どれだけ濃密な心情がこめられているのか。
ふだん寝ているベッドがイメージできないのである。「そこにはゐたのだ」の「そこ」に一片の日常性も感知できない。「のだ」とはそのような手当てなのではないか。
「亡き人」にご自分が無力だったことの哀切な心情を、筆者(わたくし式守)は、この一首に読む。よって、「しばらくの午睡」をご自分にゆるしても、しかし、「上(うは)の空(そら)」ともなってしまおう、と。
<わたし>がこの空の下を、この地の上を歩むことの負債は、返済するどころか膨らむがばかりである。
されど、世界への無力は、人間の条件なのである。この条件をそのままのみこんでなお生きるのだ。人間を人間にするためには。
と、この一首で考えてみるのはどうだろう。
実際、『ノートルダム』の著者・阪森郁代がそう生きておいでではないか。
以下の二首に、わたくし式守は、心中、果然会心の思いを持った。
生まれては消えてゆくなる冬の星ひとつ流れて鱈の身ほぐす( 冬の星)
幾ばくの迷ひもあらぬ清しさは「生きていきます」ただそれのみ(メレンゲ)
天地と共に生命がある圧倒的な存在感。
見つけた。
俯仰天地に愧じざるの姿を。
阪森郁代
阪森郁代という歌人は。人一人が人一人ではどうにもならない人ある世界との葛藤をご自分の要(かなめ)として、人間と文学(短歌)の発展を試みる。
星天の美しさにも不穏を除き得ないありようは、読者(式守)に、逆説的に希望である。






