
目 次
なぜ自己否定を必要とする
みづからを否定したくて否定するこの明るさの中なる二月(阪森郁代)
角川書店『ナイルブルー』
(蜜にもならむ)より

わざわざ否定することもない現在に、ここで、否定すべきところを探してみたのか。
否定しようと思えば否定できるところを、これまでは否定しないできたが、ここに至って、否定してみることにしたのか。
その目的は何か。
その目的は果たせたのか。
阪森郁代が『ナイルブルー』に選んだ歌をたんねんに読んで、この一首の行き着くところを探してみる。
わからぬこと/あやふさ

一気に傘広げてみてもつひにつひにわからぬことの多すぎる(一茶の行状)
そう、われわれは、頭上に、「わからぬことの多すぎる」人生を送っているのである。
日常のうすきみどりの刻々のあやふさはわが髪の先まで(アンバランス)
「刻々のあやふさ」に、この人生は、覆われているのである。
蝙蝠傘(かうもり)をぎゆつとすぼめて逃ししか青葉の闇はたしかにあった(消息)
さっきまで傘をさして歩いていたのであろう、その傘を、「ぎゆつとすぼめて」しまえば、たしかに存在していた筈のものが、もう目の前にない。
ああたしかに
わからないことばかり
そして
日常は刻々とあやうい
夜から明日へ

阪森郁代は、時の経過に、それが人間の公理のように水を探す。
水?
1 たとえば夜更け
更けてまた浄水カランしづくする 虚の静寂を遠巻きにして(こひにくちなむ)
2 そろそろ明け方
夜半水を飲みに階下へ 明日と呼ぶ時間がそこにゐれば会釈す(花冷えレシピ)
3 そして午後へと
片耳のコーヒーカップ眺めをりかくも長き午後に疲れて(時よ止まれお前は美しい)
きらきらと見えぬ微粒子渦巻ける真昼の歩み、少し疲れて(空に花束)
あれ?
阪森郁代に疲労の色が見えてきた。
未来を見通す

こころ何に燃えてゐるのか月光をひとひら浴びて背にうすら汗(蠍座)
先頭に引いた一首と自問の質が異なる。
期せずして「こころ」は「燃えてゐ」て、「背にうすら汗」を自覚する。
そして、たった今からずっと先の未来までを一気に見通す。見通そうとしてしまう。
吹かれつつ月の夜のこと、聳え立つビルもやがては枯れゆくものを(消息)
苺ジャム壜に満たしてこの後の一万日を瞬時に思ふ(花冷えレシピ)
<イエスタデー>嗄声(させい)しづかに流れくるロビー、未来を見失ふ場所(空に花束)
しかし、その行為は、まだ何かを得ていない。
阪森郁代にそれがいかに無念であるかが次の一首か。
ねがはくはそのままでゐよ覚醒の百合とねむりのあぢさゐたち(ねむりと覚醒)
それがご本人のためなのか、たとえばこの世界全般のためなのか、そこまでは読み取れないが
宇宙の流れ

おりおり宇宙をおもう。
朝(あした)には星観にゆかむ過ぎてゆく時間に足音だけを残して(姉妹)
行くもよし行かぬもよしとはるかなる星よりの沙汰とどくゆふぐれ(アンバランス)
かなしみの浅瀬しづかに渡りゆく背後に銀河をたしかめながら(蠍座)
人は宇宙の流れの中に生のあることがうかがえる。
そして、阪森郁代に、宇宙の意志を常に確かめておいでのごようすも、ここでうかがえた。
時の経過の果て

気休めのごとき冬の日 100年後わたしはどこに置かれてゐるのか(月読)
夏の夜の底光りする調理台わたしの腐敗はゆるされない(歩く感傷)
生者死者ゆきかふ街の大時計たつた二本の針も疲れて(予感)
いずれが生者でいずれが死者?
いずれも生者であり死者?
いずれであっても、時間を確かめようと時計を見れば、長針と短針それぞれに、生者と死者をおもう。
洗槽のシーツゆつくり回りつつどこかで終末時計の音(月読)
これでは、短針は長針の手助けをして、ゆっくりと円を描くが、いつしか世界にとどめをさしてしまうかではないか。
生きるも死ぬも水がそこにあるのか

死は水の中にあるのだろうか
朧夜(おぼろよ)と気づかぬままに眠りたし 時間(とき)の浅瀬に水鳥を得て(汀)
冷たさに戸惑ひながら水鳥に呑まれてしまふ日々のゆふぐれ(同)
だれもが死者として現れる汀(みづぎは)に水の羞ぢらひ満ちみちてをり(同)
死の意識避けて通れざるゆふうべまた満ちてくるみづうみ白し(月読)
水には、死を誘う力が、厳然と備わっているのか。
されど、ご自分を明日へとはこぶのもまた、水だったようだ
満月(フルムーン)海をはぐくむ朝(あした)までまだ終はらない睡りをねむる(ねむりと覚醒)
なほ夢のつづきを見むと冬の沖夢の沖へときのふのうちに(冬の沖)
そう、水は、人に安堵をもたらしてもいるのである。
そして、夜が明けて、人を、水は迎える
阪森郁代『ナイルブルー』において、これは、わたくし式守が、ことに愛している一首である。
一夜明けひらくページの行間に水の余韻が濃く立ちのぼる(汀)
阪森郁代は、水に、このような水のあることも、その手に(歌に)掬うことを怠らないのである
記憶の中にまだ生きている人

失われた記憶の中に、死者は、まだ生きている。
失つた記憶が瞬時よみがへるわづかに死者に手触(たふ)れたやうな(消息)
たんねんに揺らすは風か揺れてゐる小枝(さえだ)小枝に死者のたましひ(十月の扉)
死者の「たましひ」は、たとえばここ「小枝」にあるらしい。その小枝を、風が「たんねんに揺らす」と、<わたし>に、死者は呼び戻される。
人間の不可避のさだめ

人はいつしか小枝にあるさだめなのか。
改めて次の一首を引く。
気休めのごとき冬の日 100年後わたしはどこに置かれてゐるのか(月読)
永遠というものを、人類は、用意されていないのである。
永遠の命を誰も持たない
くるぶしは知らず差(さ)し含(ぐ)みこの道を死にゆく人のもとへ急ぎし(十月の扉)
そこ(死後)へ急いでしまうきらいさえある。
「知らず」と。
永遠の命を誰も持たない
すべてを無にかへす冬空かなしみに土砂のやうなる行き止まりあり(冬の沖)
冬空の「無にかへす」力に人は勝てるだろうか。
「土砂のやうなる行き止まり」は誰の先にもあろう。
そして国家というものへ

テロールを餌食となさば二十一世紀人(ひと)も国家も痩せむ(砂)
(前略)
角川書店『ナイルブルー』
私としては数少ない時事詠が冒頭にきた。2001年の9.11の衝撃に始まり、テロや戦争は直視せざるを得ない現実となり、
(後略)
(あとがき)より
と、著者たる阪森郁代ご本人がそうおっしゃっておられるのであれば、その通りなのでもあろうが、読者たる式守は、上の一首に、時事詠の枠に収まっている印象を持てない。
言論誌で拾える、読む前から結論がわかっている正義と倫理が詠まれているわけではない。超政治的な世界観がここに詠まれている印象を持つのである。
短歌だからと言ってしまえばそれまでであるが。
「餌食」を斡旋して「痩せむ」との帰趨を提示されたことで、このままでは、人類に明るい未来はない、と。
そしてまた、いつどこの紛争か、その特定をしての一首ではない。
国家は水を求める

国家はなべて水が必要である。
チグリスはユーフラテスをよしとしてつひに交はり海へと向かふ(砂)
水際のしらじら明けに砕けちる月を見たると叫ぶチグリス(同)
が、事は、チグリス・ユーフラテス川に限らないのである。
覇権をこの手に握るために、国家は、なべて水を求めるのである。
川を。
ついては港を。
農産物の自給のために。
重工業の発展のために。
外貨の獲得のために。
アメリカと日本を批判することさんざんな国が、決済となると、なぜ米ドルかジャパン円を条件とする。
どのお国も、通貨は、強い通貨を蓄えたいらしい。
この地上に
覇権を手に握りたい
領土よ、領土よ
宗教上の預言の論点まではここでは踏み込みません
地上には白い十字をひらく愛が

木蓮のつぼみ明るく過ぎてゆく春の一日(ひとひ)一日は夢魔(むま)(ヴィタミンカラー)
官能のままに開きし白木蓮(はくれん)のきのふもけふも風があやせり(ピッツァ通り)
木蓮と白木蓮を並べてみた。
紫と白の対比に目が眩むようだ。
一方は「夢魔」であり、もう一方は「風があや」している。この地上に、木蓮も白木蓮も、それゆえに美しく目に映る。
やがて来る凶事(きようじ)を視野に入れにつつ白き十字をひらくどくだみ(ナイルブルー)
この白い十字を十字架と読むのは深読みにあたらなかろう。
2000年前に、イエスは、その後2000年の人類の、地上の愚かさをも背負ったのか。
異教徒であっても、この十字は、読む者にこたえる。
どくだみのふかい愛がせつない
なぜ自己否定したのか/そこにたどりついているのか
みづからを否定したくて否定するこの明るさの中なる二月(阪森郁代)
角川書店『ナイルブルー』
(蜜にもならむ)より

阪森郁代は、ご自分を、この時空を、いったん消しておしまいになることがある。
ここまででこのような歌を既に引いている。
消失
冷たさに戸惑ひながら水鳥に呑まれてしまふ日々のゆふぐれ(汀)
蝙蝠傘(かうもり)をぎゆつとすぼめて逃ししか青葉の闇はたしかにあった(消息)
そして、阪森郁代は、都度、抵抗を試みているのである。
ここまででこのような歌を既に引いている。
抵抗
瀬の音の聞こえぬ岸辺 足下へ去年(こぞ)の時間が押し戻される(歩く感傷)
降る雪に呑まれてしまふ心拍音、存在の糸口を探さう(こひにくちなむ)
阪森郁代一個人は、よしや紛争に無力でも、この地上に、さりげなく咲く愛を発見し得た。
自己否定の果ては、これまでに覚えた愛を、これまでよりも大きく深い愛に更新して、阪森郁代は、これを世に送り出したのである。