1
故郷に戻る人と戻らない人がいるらしく、乱読の中で知ったことだが、与謝蕪村は帰らなかった。が、松尾芭蕉は帰った。何度も帰ったとか。
資質の違いか。そうかなあ。
良寛は、故郷に戻った。
良寛にとって、故郷(出雲崎周辺)は、かつて自分が挫折した、人間の欲望や残酷なありさまを目撃した地だった。
その故郷にわざわざ戻った。そして、かつて自分を苦しめた世俗の人々と同じ目線で交わったのである。
なぜ。
2
曹洞宗というものが、よっぽど良寛に慕わしかったのか。
ここで改めて曹洞宗に踏み込むつもりもないが、良寛を知るために、曹洞宗でよく知られていることを二つ。
「只管打坐」と「修証不二」の姿勢。
「只管打坐」とは、ただひたすらに坐ること。
悟りを開く目的も期待もなくただ黙々と座ることだ。
「修証不二」とは、修行と悟りは一つである、ということだ。
悟るために修行するのではない。正しい姿勢で坐禅をしている姿そのものが、すでに悟りの姿(仏の姿)なのである、と。
3
良寛が訪れたのは、実家からほど近い曹洞宗の寺院「大森寺(だいしんじ)」だった。
当時、良寛は、気が急いていた、と思われる。
このままでは精神が崩壊する。早く家を出ねば。
しかし、駆け込んだのは近所だったから程度のところで、その後の厳しい修行を続けられるものだろうか。
武藤雅治さんの「異形の良寛」にも詳しいが、出逢い、というものがあったようなのだ。
曹洞宗の高僧である国仙(こくせん)和尚が、若き良寛の駆け込んだ大森寺にやってきた。
良寛は、国仙和尚にはまこと深く感銘を受けたようで、実家から遠く離れた岡山県(備中玉島)の円通寺(えんつうじ)まで和尚を追いかけたそうな。ばかりか、そこで12年もの厳しい禅の修行を積んだ、と。
良寛、三十三歳。
ついに国仙和尚より修行の印可の偈(げ)(修了証)をもらえた。
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この印可の偈(げ)であるが、以下の漢詩が遺っている。
良也如愚道轉寛 良や愚のごとく道うたた寛(ひろ)し。
騰々任運得誰看 騰々任運にして誰か看るを得む。
爲附山形爛藤杖 ために附す山形瓓藤(さんぎょうらんとう)の杖を。
至處壁閒午睡閑 至るところ壁閒ありて午睡閑(しづ)かなり。
その後、良寛は、四国を遍歴した。山形爛藤の杖に拠って、である。
この山形爛藤の杖を、良寛がいかにたいせつにしたか、鮮明にイメージできる。
5
なぜ四国だったか。そして、なぜ故郷に戻ったのか。
そのあたりはわかっていないようだ。
歌も漢詩も遺っていない。
「異形の良寛」の著者の武藤雅治さんの記述によれば、
「不立文字を旨とする曹洞宗においては、芸術への接近はきわめて慎重であった」と。
道元の言葉を弟子の懐奘(えじょう)がメモした本『正法眼蔵随聞記』の中で、道元は、「出家した者が、詩を詠んだり、文章(文学)を飾ったり、歌を詠むことに時間を使うのは、仏道を歩む上で全くの無駄であり、即座に捨てるべきだ」と。
「不立文字」つまり文字に頼らない。なるほど。
それならそれでいい。でも、道元は、『正法眼蔵』を遺していて、それも、美しい和漢混交文で書かれている。
また、
春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて冷しかりけり(道元)
この有名な和歌など、読む者をうっとりとさせ得る名歌なのではないのか。
話がそれるようで気がさすが、このあたりはわからない。
後世の門外漢が僭越であるが、道元もまた、表現しているお人にならないのか。
二股膏薬とは言わないが、一貫性ということでは疑問を持つ。
真理を表現するために言葉というものを借りたのだとしても、葛藤がおありだったことは隠しおおせない。
ただ、四国遍歴では詩歌を遺さなかった良寛が、後には詩作を自ら禁じなかったのは、そのあたりに源流があるのではないかと。
6
さて、遍歴はなぜ四国で。そして、故郷に戻ったのはなぜ。
武藤雅治さんは、『異形の良寛 渇きと訪れ』の(5・杖と望郷)の結びに、なぜ四国かはわからないが、故郷に傾斜したことでは、このように書いた。
「「仏道はもとより豊検より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。しかも、かくのごとくなりといへども、花は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。」という『正法眼蔵』の「現成公案」の問いかけを聴き、良寛は、山形爛藤の杖を故郷出雲崎に向けたのではないだろうか。」
結論的に、筆者(わたくし式守)も、同じ結論に至っている。
そのあたりを以下。
7
親鸞は、吉川英治や五木寛之、また三浦綾子などの小説でドラマチックに描かれるが、その一方で、道元は、エンタメ作品にならない。
親鸞は、仏教のタブーを破って、肉食妻帯を公然と行った。罪悪感に苦しみ、底辺の民衆と同じ目線で生きたともなれば、作家なんて手合いはこれを素材にしたくもなるのであろう。
なのに道元の求道たるやなんとストイックだったことか。
名声や富を厭い、山の奥でひたすら坐禅を続けた人生は、思想的には気高くも、ドラマ性が低いのである。
されど、国仙和尚へ、そして良寛へ、道元をスタートとする一本の線は、これまで知らなかった人間ドラマとして質が高い。
そのことに、筆者は、目が覚めるおもいなのである。
8
先の武藤雅治さんが紹介なさった『正方眼蔵』の一節、筆者は、襟を正さないでいられない。
どれほど修行したって花が散れば悲しく、雑草が生えれば嫌なもの。不完全な現実こそが今ここにある唯一の真理。すなわち現成公案。目を背けるな。
時代を遡って、曹洞宗の開祖・道元は、当時の風潮を背景に、名誉や利益のために仏教を利用するな。山奥でただ坐れ。そう説いた。
そして、先の国仙の印可の偈(げ)。
先の漢詩の、
至處壁閒午睡閑(至るところ壁閒ありて午睡閑(しづ)かなり。
良寛への国仙和尚の慈しみが深い。
故郷で、良寛は、生涯お寺は持たなかった。小さな庵(五合庵など)に住み、子供たちと手まりをついて、和歌を詠んで暮らした。
若き良寛に苦痛に満ちていた場所で。
その故郷で、かつて自分を苦しめた世俗の人々とわざわざ同じ目線で交わって生きることにした。
9

良寛の心は、国仙和尚の「偈」に、さらには道元の『正方眼蔵』に遡れないか。
と、筆者(わたくし式守)には、そう思えてくるのである。
相伝とはそういうものと言われればそれまでの話であるが。
その心を、敢えて故郷の俗世間の泥の中に、良寛は、投げ込んでみたかったのではないか。
結果、良寛は、そこに花を咲かせた。
出家、あるいは家出。良寛にたまたま近くにあった曹洞宗。
たまたま近くにあった曹洞宗は、良寛を、家から出して、故郷を遠くにさせて、そして故郷に戻したのである。
「花は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり」と。
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良寛は、出家という、家出という、実家からの逃亡をした。
理想の聖域へと。
しかし、良寛に、常、耳に聞こえる声があった。
たとえばそれは、『異形の良寛 渇きと訪れ』の(5・杖と望郷)の結びに、著者の武藤雅治さんが書き留めた言葉であろうか。
かつて自分が傷ついた人間の醜さ(草)も、愛おしい命(花)も、すべてがそのまま、あるがままの世界。
良寛は、皮肉な言い方にはなろうが、清らかな修行道場に引きこもることを断ち切ったのではないか。「花が散り、草が生い茂る」それが自分の原点であると。
血生臭い故郷の現実社会へ戻ってみる覚悟はかくして徐々に現実化した。
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次回の予告。
やはり武藤雅治氏の「異形の良寛」を基に、良寛は浮浪人であるか、そのことを。
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