手毬の良寛の真実/その歌は/武藤正治「異形の良寛」を基に

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良寛と言えば、子どもたちと手毬をついている姿を思い浮かべる。
いかにも記号的であるが、これは、良寛の代名詞である。

だが、良寛を知れば知るほど、彼は、聖人君子などではなく、いや、そうと讃えていい一面もなくはないが、どこか抜けていて、わが人生の愛すべきお隣さんのような人物だったのだ。

筆者が敬愛する歌人に武藤雅治さんがいらっしゃる。
氏の著書の『異形の良寛 渇きと訪れ』(花伝社)、この著書に、良寛が遺した漢詩や和歌が引用されている。
筆者(わたくし式守)は、良寛の深く静かな孤独、また、その癒やしに触れることができた。

当サイトでは、この先も(この稿でおしまいにしないで)、「異形の良寛」を基に、良寛について、その歌について書き留めておくことにした。

郷里に戻った良寛の身なりやそれはひどかった。
こわがる子もいたろうに。

武藤氏も<主要参考文献>に挙げておられる北川省一氏らの指摘によると、衣服はボロボロで、ひたすら托鉢をして歩く、この異形の乞食(こつじき)僧を、最初は、怪しんで遠巻きにしていたとか。ばかりか、なかには、物乞いの変なお坊さんが来た、と石を投げる子もいたそうな。

いくら児童を当人が愛していても「異形」の大人がすぐなつかれるほどこの世は牧歌的ではない、ということか。

子ども側の警戒心は、良寛の圧倒的な無欲と天真爛漫さによって、時間をかけて自然に溶けたようである。

武藤雅治氏は、良寛の次の漢詩を引いている。

孤拙兼疎慵 孤拙にして疎慵を兼ね、
我非出世機 我は出世の機にあらず。
一鉢至処携 一鉢を至るところに携え、
布嚢也相宜 布嚢もまた相宜し。      
時来寺門傍 時に寺門の傍らに来たりて、 
偶与児童期 偶(たまた)ま児童と期(ご)す。
生涯何所以 生涯は何に似たるところぞ。
騰騰且過時 騰騰として且(まさ)に時を過さんとす。

孤拙……今日のひきこもり
疎慵……怠け者

良寛の友人であった解良家の記録『良寛禅師奇話』の証言によれば、良寛とは、徹底して「間抜けで、威厳のない大人」だった、と。

大人の権威など自ら捨てていたのだろう。
そのあり方が、時の経過に伴って、「偶与児童期」も自然なお人にしてくれたのであろうが。

良寛には、次のような漢詩もある。
これも、武藤雅治氏が、引用したものである。

筆者(式守)は、ここに(恣意的になるが)一部を写す。

(前略)
書生偏流文 書生は偏へに文に流れ、
釈氏固執理 釈氏は固く理に執す。
寥寥千載下 寥寥たる千載のもと、
無人論斯旨 人のこの旨を論ずるなし。
(後略)

<我流の訳文>

道を学ぶ者は文に虚飾あり/僧侶は宗派の教えに固執せり/わびしきこの千年来/それを論じる者一人とてなし

ここまで読むと、良寛に、児童たちが切実な存在だった理由がよくわかる。
ただの子ども好きだったのとは違うのだ。

武藤雅治氏の生の文章はこうだ。
「堕落した世相の対極には児童の世界があり、それが唯一の救いでもあったのかもしれない。」

手毬の良寛の真実/その歌は/武藤正治「異形の良寛」を基に

霞立つ永き春日を子供らと手毬つきつつこの日暮らしつ(良寛)

この一首、一般的な“読み”であれば、「春の日の昼が長くてのんびりしたものだ」なんてあたりか。

が、良寛の内実に少しでも踏み込んでみれば、世間のせわしない価値観や出世競争を唾棄していた荒れ狂う心があった、その上でのかわいい子どもたちだったのだ。

「無人論斯旨」、
要は、「もっと人間の本質を話せ」と。

良寛とはこのような人だった。
このように世間の矛盾を見通して、そこで、自身の無力感を強く覚えておられたわけである。

「暮らす」という言葉であるが、これは、現代では「生活する」という意味になる。
が、古語では、「日を暮れさせる(一日を終える)」のニュアンスが帯びる。
主体的なのだ。

武藤雅治氏も、「つ」に着目なさっておられて、著書に、次の一文がある。
「結局、「この日暮らしつ」の「つ」には、複雑な意思の反映を読みとることができる。「暮らしぬ」ではなく「暮らしつ」であることは小さな修辞上のことのようであるが、案外重要なことなのかもしれない。」

武藤雅治氏の『異形の良寛 渇きと訪れ』の(2・児童との遭遇)の結びには、老人を「カミ」のように見る、当時の“感覚”が紹介されていて、当地で、子どもたちと良寛の遊戯に重ねてみる説は、看過できない説であるが、当記事ではここに踏み込まなかったことを付記しておく。

次回は、「良寛の遁走」のタイトルで、やはり武藤雅治氏の『異形の良寛 渇きと訪れ』を基に、出家したことに、良寛の負い目があることを考察してみる。