
目 次
歓声をあげて
おおーという歓声あげて走り過ぐオレンジ色のトンネルの中(大崎安代)
短歌研究社『象を飼う家』
(一泊千円)より
目に浮かぶ。
音響も耳に聴こえてくるようである。
<わたし>は、トンネルの中で、こうもたのしんでしまえる。
<わたし>に家族がある。
夫と娘だ。
カントリーボーイの君に分かるまいこの東京の何と楽しき(力作)
眠そうに目をこする様も猫に似てお前はもしやあの時の猫(格安)
夫と娘の登場はこのようであった。
このように詠まれた。
トンネルの中で「歓声をあげて」いるとすれば、ここは、自家用車(あるいはレンタカー)の中か。
その歌人が、読者たる式守に、うれしい、と思われていることがある。
そのような歌人が、わたくし式守に、幾人かある。
日をまともに見ているだけで
うれしいと思っているときがある八木重吉『貧しき信徒』
(太陽)より
すてきな「うれしい」ですね
娘・時間のたつのが早く

赤い傘何処か行こうと玄関で大きな緑の傘を誘いぬ(横顔)
雨が降っているのに、娘は、母を外へと誘う。
一人ではまだ外出できないからばかりではあるまい。母なる女性と外出したいのだ。
本人はもう行くと決めている。
「玄関」が家の外と内の境界なんだなあ
ももちゃんがお休みだったと肩落とす小さな世界拡がってゆく(円高)
行動範囲が家の外へと拡大したんだなあ
家の中だけで時間を送らない。送れない。
時間を母とだけ共有する時代は過ぎた。
「肩落とす」と?
内省を覚えたようだ。
それはまだまだ未熟な内省かも知れないが、からだのサイズが大きくなるにつれて時間の波にさらわれてしまうようなことは、これで避けられた。
今年のか去年のかもう判らないお祭りの写真整理する午後(現象)
「午後」がいい。
午前と夕方は、娘の送迎がある。あれこれすることがある。
しかし、娘はもう、乳児ではない。
梅雨時の雑草のように昨日と今日で丈がもう違うようにいかなくなってきたのだろう。
夫・時間のたつのが遅く

一週間休暇取得し家にいる夫はする事も無くて風邪ひく(横顔)
自分だけ遊びに出かけるわけにはいかない。
家庭を持つとは身軽ではなくなることだ。
そも同僚や旧友と都合を合わせた休暇ではない。
娘とももちゃんのようにはいかないのである。
珈琲はいらぬとわれを遠ざけて書斎に籠り書きし始末書(嘘つきながら)
出た。
<わたし>の「夫」ともなるとやはり大崎安代ワールドの人間だったか。
「珈琲はいらぬ」って、あなた、何をそんなエラソーに。
「始末書」なんてそれはもうメンドクサイ仕事をお持ち帰りではあろうが、今が一期の浮沈の難局でもあるまいに、こうも大仰に「書斎に籠」るのである。
ハゲそうで早目に結婚したという目の前の夫の遅い告白(夫の告白)
どこまで本気なんだ。
事実なんだろうなあ
たった今も既にして髪の薄くなっていることをおかなしみとか。
結婚を急いだことは間違っていなかったことを確認出来ての「告白」とか。
めざせハワイ

銀行でもらった赤い貯金箱「めざせハワイ」と太字で書きぬ(嘘つきながら)
「めざせハワイ」の「めざせ」に愛しくなる。
このスローガンを、大崎安代は、歌人として一つ工夫をこらしてみようとはしない。
「めざせポケモンマスター」の「めざせ」のようにどこまでも純粋だ。
かならずGETだぜ!
ポケモンGETだぜ!『めざせポケモンマスター』
作詞・戸田昭吾
大人になってもこんなものを書く、と思うのは、何かを失ってしまったからである。
<わたし>は、純粋というものを、今も失っていないので書く。それも「太字で」書く。
懸賞のハワイ旅行を当てようとハガキを買いに晴れた道行く(屋上)
こんどは「懸賞」です。
「晴れた道」を選んで「行く」ところに、「ハワイ」が、いかに切実か伝わる。
どれだけハワイに行きたいんだ。
応募のハガキの投函ではない。まだ「ハガキを買」うに過ぎない初期段階でこれである。
屋上で象飼う家のうらやまし猫一匹も飼えぬマンション(同)
歌集のタイトルは、この一首から採られた。
わたくし式守あたりの基準では、「猫一匹」を「飼」うだけでも異色たり得ていると思うのであるが、大崎安代に、「猫一匹」程度でそれはないのであろう。
そもそもその「家」は、「屋上」に、どうやって「象」を運んだんだ。
格安の都内新築みなみ向き求むと書きぬ絵馬のうらがわ(格安)
「絵馬」に「求む」と。
「めざせハワイ」とは質感が異なる。
条件が細かい。
ないものねだりに近いが、<わたし>は、どこまでも本気である。
かならずGETだぜ!
ポケモンGETだぜ!『めざせポケモンマスター』
作詞・戸田昭吾
かくしてこのご家族はマイホームへの時間を進むことになった。
マイホームへの時間が進む

来年の今頃はここに住んでいるひと足早く深呼吸する(期待)
今はまだ基礎工事するその場所に思い残して揺れる花束(蹴るか妥協か)
五階まで工事進みぬマンションのわが七階はまだ青い空(期待)
<わたし>の胸中に、生活設計は、衰えることを知らない色彩があるのである。
その色彩は、前途の長期化をよくわきまえた上での色彩であるが……、
契約書に印鑑捺して手に入れた社宅脱出の片道切符(蹴るか妥協か)
マイホームともなれば「めざせハワイ」とはイベントの格が違う。
「契約書」が要る。それは、「ハワイ」の往復搭乗券どころではない。
これを、「片道切符」と表現する理性が、大崎安代にある。
この家庭の暮らしに盤石の安定を覚えられるのは、「めざせハワイ」の一方で、現実の認識に一片の甘さもないことである。
<わたし>は、浮ついた人生を送っているわけではない。
にしても
式守はなぜ
この家庭に
こうも声援を送る
ここで「印鑑」と「捺す」について
「印鑑」
(作品の香気を損なう無視できない瑕疵であるとの指摘ではございません(誤解のないよう念のため))
「ハンコ」を捺した後にできる文字や模様を印影と呼びます。
元々の「印鑑」は、この印影の中でも市区町村の役所や銀行といった、公的な機関に届け出した「ハンコ」の印影を指す言葉です。
「捺す」
押印とは
押印は「記名押印」の略語で、記名(パソコンやゴム印などで印字された、自署以外の氏名表示)のある箇所に印を押すことを指す。捺印とは
一方、捺印は「署名捺印」の略語で、「署名」(自筆のサイン)のある箇所に印を押すことを指す。オフィスのミカタ
(押印と捺印の違いとは? 使い分けや電子印鑑を使うメリット・デメリットを紹介)より
堂々たる主役の<わたし>は

皿洗い真面目にやれば食器棚入り切らずに途方に暮れる(石橋)
大きなお世話なようで気がさすが、<わたし>は、「皿洗い」を、ふだんはさして「真面目にや」らないごようすである。
たまに「真面目にや」るから、ほれ、食器棚にスペースが足りなくなってしまったではないか。
だからかどうか、<わたし>のセンサーは、このような働きを備えたらしい。
笛を吹くケトルの怒りを止めるため下僕の如く走ってゆきぬ(つもりつもって)
ああ、あの「笛」は、そうだったか、「怒り」だったか。
キッチンをピッカピッカに磨きあげ勿体ないと出前を取りぬ(同)
……?
まずい書き方か。
こんな短歌ばかりここに引いては、キッチンに、大崎安代は、あたかも怠け者の節句働きのようである。
それは式守の本意ではない。
むしろ、この歌集『象を飼う家』の<わたし>には、博識な哲学よりもはるかに役に立つ生活技術があるのであるが、次はそのあたりのことを。
鮮やかな解決手段

少しづつ生活態度を変えようと顔を洗って玄関を掃く(ぷるん)
これは「顔を洗って出直す」の「顔を洗って」か。
つまり表現としてこのような措辞なのか。
あるいは、実際に、「顔を洗って」から「玄関を掃」いたのか。
何にしても、「少しづつ生活態度を変え」るのに、まずは、このような低空飛行から始めることの何と聡いあり方だろう。
何時間寝ても眠たい春の日に目覚まし時計をもひとつ買いぬ(屋上)
なるほど。
「もひとつ買」えば解決ではないか。
お金を払ってでも悩みを増やすような人がある。
わたくし式守も、そのような一人なのであるが、あれこれ考えて、それが実はシンプルであることを見落としてしまうきらいがある。
この「目覚まし時計をもひとつ」は、わが人生の死角に入っていた。
「もひとつ買」えばいいのである。
それでいいのである。
蒸し暑く頭も体もダルイ日は二時間置きに歯を磨きおり(駐車場)
頬づえをついて悩んで考えるポーズのままに眠りにつきぬ(横顔)
大崎安代の文学に、近代文学の宿痾とも言える、わざわざ頽廃のために身を削る自意識はない。
自意識を表現するにおいて近代文学の縛りから自由なのである。
永遠が保証される祈りに似る

環七の騒音さえぎるガラス戸に雨音もなくひかる水滴(便乗婚)
台風の風がアミ戸をくぐり抜け何かわめいて机上を乱す(香港返還)
『象を飼う家』を読み返すと、この二首は、式守にこたえる短歌に変容していた。
どうかこの家を
こわさないで
どうかこの家の
未来は
そっとしておいて
ガラス戸
環七の騒音さえぎるガラス戸に雨音もなくひかる水滴
歌集中、これは、式守のとりわけ愛する一首である。
「ガラス戸」に、外界の危険指数が、「ひかる水滴」として表示されている。
しかし、よそのガラス戸にあっては、この家もまた「ひかる水滴」なのである。
『環七の騒音』はまだいい。
アミ戸
台風の風がアミ戸をくぐり抜け何かわめいて机上を乱す
「アミ戸」はどうか。
主に夏から秋にかけて、時のめぐりである以上は不可避の「台風」は、「アミ戸をくぐり抜け」て、家の中で「わめ」く。家を襲う。
台風に、人間は、抵抗することができるのか。
残された時間に

七五三終えて切ろうと約束の二本のおさげはさみを嫌う(祝七歳)
娘が拒絶したのか。
母が躊躇したのか。
そのような表現としての「嫌う」もおもしろいが、式守がこの短歌を敬うのは、この一首が、<わたし>が家の時間を全身で感受している、研ぎ澄まされた感性である。
<わたし>は、浮ついた人生など送ってはいない。
人間は、より内省的になれば、未来を、そうやすやすと明るく描けるものではないのである。
されば、このような「はさみ」を、<わたし>は、この先も上手に使えるに違いない。
明朗この上ない大崎安代の文学は、この無力の自覚とセットになって、一冊の歌集に厚みを持たせた。
短歌研究社『象を飼う家』で、大崎安代は、人に、明るく生きることに何の制約があろうかを十全に証明して、この式守の残された時間に明朗であらんことを指南した。