
目 次
孤独

忽ちに遁(のが)しし幸よ用のなくなりしリキュールグラスを磨く(大西民子)
短歌新聞社
『石の舟』大西民子歌集
「まぼろしの椅子」抄
(寂しき電話)より
夫が去ってしまったようだ。
「リキュールグラス」に、それも、「リキュールグラスを磨く」ことに、それがどんなに辛く悲しいことかが、映し出された。
このような知らせが届いた。
わが教へ子が夫の教え子に嫁ぐ知らせ届きぬ夫の帰らぬ家に
「同」抄
(まぼろしの椅子)より
若者たちをとりわけ祝える筈だった。
チープに見えても、幸福の世代連鎖が、ここに見られる筈だったのである。
綿(わた)の花しろじろと摘まれゐるものをわが名呼びつつ来む母は亡し
「花溢れゐき」抄
(石の船)より
母も今はない。
「わが名呼びつつ」だったそうな。娘にそのような母だったのだ。
そのような「母は亡し」の人生でもあられた。
心身/疲労をこう表現した

有機物の燃ゆる臭ひと思ひゐて肩へ集まりくる疲れあり
「不文の掟」抄
(不文の掟)より
千載の毒をここに除すべくも、「疲れ」がひどく、いかんともしがたい。
そして
拭ひ切れぬガラスの曇りわが持てる歪(ひづ)みも触れて痛まずなりぬ
「無数の耳」抄
(陶の卵)より
「痛まずな」った、と。
そう言ったって、あなた、まだ「歪み」はおありではありませんか。
風の夜の影ゆがむ中一本の裸木が張れる神経の枝
「同」抄
(同)より
「裸木が張れる神経の枝」と。
これが歌人の歌人たるゆえんなのか、「神経の枝」は、「風の夜の影ゆがむ中」に見えてしまうのである。
世間/噂

虐げらるる程強くなる女よといふ噂帰り来てひとり炭火をおこす
「まぼろしの椅子」抄
(寂しき電話)より
「帰り来てひとり」のわが身のめぐりは、人の気も知らないで、こんなことを言ってくるのである。
間違ってもいまいが、そうでもなければ生きられない、というところまで見通してくれる人は、そうそういないのもまた、世間なのである。
風邪癒えて頭痛かすかに残る日々噂の中のわれのみはばたく
「無数の耳」抄
(陶の卵)より
「はばたく」のは「噂の中のわれのみ」、と。裏の「われ」は、「はばた」いてなどいないのに。
<わたし>は何も、世間に向かって、演技をしているわけではない。自分自身を欺いているわけでもない。
だが、「はばたく」は、そのように目に映っている、というだけの話で、それはもういっぱいいっぱいに生きている、ということなのである。
そのような心情を、大西民子は、このように詠んだ
このように詠むしかなかったことが痛ましい
わが編輯の緻密を人のほめしとぞ仕事にうちこむ外なき身と知らず
「まぼろしの椅子」抄
(花言葉)より
ほれ、
大西民子は、怒っているではないか。
怒ってはいない、
としたって、ますます孤独を覚えてはいようか。
石などに似て来しわれと思はねど石も呻くと聞けば嘆かゆ
「無数の庭」抄
(象なき岩)より
父と妹/血は水より濃い

亡き父のマントの裾にかくまはれ歩みきいつの雪の夜ならむ
「花溢れゐき」抄
(石の船)より
<わたし>は、今、「雪の夜」をひとりなのか。
親の膝を子のままになつかしむ。外が寒かったのであろう、このひとりを思うほどに、「亡き父」の存在は大きくなるのであった。
幼くて父を失ひし日のみぞれ今に憶えゐて妹の言ふ
「同」抄
(化身)より
「みぞれ」を外に、ここでは、「妹」といる。
「妹」もまた、姉である<わたし>と同じで、外をよく確かめてしまうのか。
「父」をなつかしむこと、姉とまた同じ。
血は水より濃い。
姉妹にて分ち持つ鍵緋の房をつけし一つは妹が持つ
「同」抄
(同)より
この「鍵」は、「緋の房」であることが、まこと美しい。
清浄な情愛が、「緋の房」で、保障されている
「鍵」の、そのような「房」だと思うのであるが、どうだろうか
目と沼/息をつけること

目薬を鞄に持ちて通ふ日々火の粉のごとき雪が降り来(く)る
「無数の庭」抄
(象なき岩)より
まなうらに白々と立つ噴水も病む目のゆゑとして眠るなり
「同」抄
(同)より
<わたし>に「病む目」のあることで、外は、視界そのものも厳しいようだ。
「雪」を「火の粉」と。
「まなうら」は「噴水」と。
しかし
以下、「沼」は、<わたし>の「目」に欠かせない存在であるらしい。
森を抜けてのがるるごとく帰りしが眼裏(まなうら)に白き一枚の沼
「無数の庭」抄
(陶の卵)より
白々とひろがりやまずわが視野のはづれにありし一片(ひとひら)の沼
「同」抄
(同)より
「沼」を目の前に写生した短歌とは思えない。
「眼裏(まなうら)に」と。
「視野のはづれに」と。
水鳥のむれ去りてよりあけくれに予感鋭く光る沼あり
「同」抄
(象なき岩)より
「水鳥のむれ去」るを見てからは、
「あけくれに」と。
これこそが正に歌人の歌人たる資質か、「光」に「予感」を持つ。
何の「予感」かはわからない。が、そこは、「予感」に打たれる「沼」でもあった。
そこに身を置くこと常ならざるも、なるほど、これでは、「沼」が大西民子の頭から離れることがないのもうなずける。
沼と犬/犬は必ず帰ってくる

草の実をつけて戻れるわが仔犬隠(こも)り沼(ぬ)は夜の何方(いづかた)ならむ
「不文の掟」抄
(不文の掟)より
「犬」はあたかも、「病む目」の<わたし>の代わりに「沼」に行っていたかにも印象される。
そして
以下の如く
「犬」は
大西民子のもとへ
必ず帰ってくる
日のくれに帰れる犬の身顫ひて遠き沙漠の砂撒き散らす
「花溢れゐき」抄
(石の船)より
いづくまで行きしや月の夜の更けをつゆけき犬となりて帰り来(く)
「同」抄
(化身)より
「遠き沙漠の砂」浴びて
「つゆけき」姿になって
「犬」は
大西民子のもとへ
必ず

耳と髪/現実に戻される

まず
耳
切り株につまづきたればくらがりに無数の耳のごとき木の葉ら
「無数の耳」抄
(陶の卵)より
まことご不運であられた、とは思うが、ここで、わたくし式守は、「木の葉ら」は「無数の耳」との表現を読み流すことができない。
耳たぶの小さき黒子(ほくろ)を禍根とし朝々われは髪もて覆ふ
「同」抄
(同)より
大西民子に、「耳」は、こうであった。
「耳」の「黒子」に、「禍根」が、視覚化されてしまう。
そも「黒子」を見る目もまた「病む目」なのであるが。
そして
髪
ぬけがらを置きてとびだつすべなきに洗ひし髪のたちまち乾く
「不文の掟」抄
(不文の掟)より
「禍根」を隠してくれる「髪」は、わが身を、「たちまち」現実に戻してしまうのである。
かつては、「髪」に、そんな存在理由はなかった。
洗ひたる髪凍らせて歩みしか雪国の夜の記憶も古りぬ
「無数の耳」抄
(象なき岩)より
たとえ「凍らせて」しまった「髪」であっても、かつては、そこに、「父」のいた「夜」があった。「母」のいた「夜」があったのである。
目と耳/たしかな朝

鐘(カリヨン)の曲流れくる朝の窓黄味つぶらかに卵は割らる
「不文の掟」抄
(不文の掟)より
「禍根」のある「耳」と「病む目」で、大西民子に、「黄身つぶらか」な視覚と「卵は割らる」聴覚の鋭い「朝」がある。
たとえ「禍根」が視覚化されている「耳」であっても、「鐘(カリヨン)の曲」は、<わたし>に徒なすものではあるまい。
だから歌にしたのではないのか。
大西民子に、このような朝があった。
たしかな朝があったのである。
大西民子への視線をとても外せないのは、大西民子に、このような朝を放棄することがないからこそ、と言っては、言わでものことだろうか
決意/美しい木蓮

木蓮の落花一ひら拾ひ上ぐ女一人生きてゆかねばならぬ
「まぼろしの椅子」抄
(花言葉)より
このように決意した大西民子であった。
それは、「木蓮の落花一ひら拾ひ上ぐ」がやっとで、咲き盛る一抱えではないが、ご自分の未来への舞台から降りることはなかったのである。
木蓮は樹下に立つ人の眼を乱すほどの細い枝をいたずらには張らぬ。花さえ明(あきら)かである。この遥かなる下から見上げても一輪の花は、はっきりと一輪に見える。
夏目漱石
『草枕』より
木蓮の美しい文章である。
このように美しい木蓮を一輪拾って、この身を未来へつなげる歌を詠むことが、人間は、可能な生き物なのである。
大西民子に、木蓮一輪は、その人生に、その人生の惨涙が剛毅に迸る痕である。