沖ななも『ふたりごころ』人生がつまらなく見えないのである

人生はいいもんだ

恐るべき致死率のウイルスで世界の主要都市が壊滅してしまう映画があった。
『復活の日』である。
日本映画史においてさして高い評価を得ていないが、高校生になったばかりのわたしは、それはもう何度も映画館に足を運んだ。
40年後の今日、わたしは、新型コロナウイルスで絶望に陥っていない。『復活の日』は、わたしの人生に、それだけいい映画だったわけだ。

主役の吉住(草刈正雄)が、死にゆくアメリカ人に問われる。
「ライフ・イズ・ワンダフルを日本語でどう言う」
「人生はいいもんだ」

わたしは、河出書房新社の『ふたりごころ』で、「人生はいいもんだ」と思った。

冬を迎える

沖ななも『ふたりごころ』人生がつまらなく見えないのである

<わたし>は、季節の移り変わりのなかで、都度、無邪気な顔を見せる。
冬を迎えるまでの過程で、たとえばこんな……。

夏蜜柑ふてぶてしくも十本の指をよごしてむさぼり食いぬ(夏のつっかい棒)

すでにして峠を越えし暑さかこの夜らっきょうをサクリと嚙めり(同)

コップの麦茶ひといきに飲む勢いのうすれて秋のそこはかとなく(夏の勢い)

セーターをとりだしやすいところから引っぱりだしてとりあえず着る(秋の入口)

たちまちに朝の寒気が萎えてゆきわたくしの戦意もこれまで(冬の動悸)

たのしそうな平凡だなあ。

働くことは尊いらしい

沖ななも『ふたりごころ』人生がつまらなく見えないのである

ネクタイを引き抜くときにあんなにも寂しい音がするものなのか(寒のもどり)

言われてみれば、ああ、あれは、「寂しい音」だよな。たしかに。
「ネクタイを引き抜く」とは、本来、わが身に戻れることである。いまいましい職場から解放されたのだ。なのになぜ。いや、だからこそ「寂しい音」が生まれるのか。

鉄骨のうえを襤褸のふかるるとみえしは人か声を発せり(無風なる)

トラックが一台通りややあってまた一台を音のみで聴く(あいまいになる)

そこにある真の心情がいかなるものであっても、働くとはやはり美徳であることを説得される。
「一台を音のみで聴く」それは、騒音ではない。

また、「一台を音のみで聴」いたことで、時間の経過がわかるのもいい。身のめぐりは、働いている人がたくさんいるわけだ。

そして
これ

満杯の水を一滴もこぼさぬよう歩くが人生と言うを見送る(混沌広場)

ご自分の人生はどうなのか

沖ななも『ふたりごころ』人生がつまらなく見えないのである

風のない夏の午(ひる)すぎいたずらに何かをじっと待つばかりなる(無風なる)

境内に石のしきつめてあるところからはずれることのなきわれの歩みは(当然のこと)

まあまあのところがまあまあのままでこのごろあきらめまじる(まあまあのまま)

まあご本人がそうおっしゃるならそうなのだろう。
だが、人の人生とは、おおかたこんなものなのである。

「待つ」→「歩み」→「あきらめ」
人生が無為に過ぎゆくさまを唖然と自覚するしかないことが増えてくる。

しかし、この『ふたりごころ』を何度読み返しても、ここにある人生がつまらない人生には見えないのはなぜ。

なぜ?

運動靴の紐がほどけて立ちどまり前半生が後半生と入れ替わる(黙る道)

気がつくと、人生は、残り時間の方が少なくなっている。その焦燥が初めてホンモノになってしまった時に、わたくし式守は、それを、このように能動的に認めることなどできなかった。

外界との境目

沖ななも『ふたりごころ』人生がつまらなく見えないのである

<わたし>は、常、外を歩く。

体(からだ)半分のりだしてみる川の面が誰に見らるるともなく流る(人を待つ)

何のために掘られたる穴かと覗きこむ重心を前へと移しながら(まあまあのまま)

外界における<わたし>は、常、能動的なのである。
外界とご自分を区切る円周を拡げることに寸時の逡巡もない。

透明のガラスへだてて見る見らる人間とイルカ鼻つきあわす(秋の入口)

垂直にガラス立てればそれが境、内側の人コーヒーをすする(水の頭)

この世界の「境」を直截に詠んだものを並べてみた。
「四十」にしてなお新鮮な感度を保っておられる。
あるいは、「四十」までに磨かれた感度がいかんなく発揮されている。

この地上は広大であるが、境が、厳然と存在していた。

近代短歌以降の<私性>

沖ななも『ふたりごころ』人生がつまらなく見えないのである

近代短歌以降の、前衛短歌、及びニューウェーブを経て、そして今日に至る<私性>の変容に、無関心ではいられない。
いや、無関心だって責められる話でもなかろうが、わたくし式守にも、自前の論を構えたい、との熱意はあるのである。
ただ、卑屈になるつもりなどないが、経験と適性がこれを困難にしている。
さしあたり、歌人と外界との境目はいかなるものか、目下、それがわたくし式守の関心である。

春めける風がしずかにわたりゆき忍び笑いをする池の面(おも)(黙る道)

この一首に、わたしは、自他に確かな交感がある、涼しい光沢を見る。

やがて、短歌の<わたし>は、自他が円滑に呼応しない時代を迎えるが、この歌集『ふたりごころ』が出版された時代(1992年)は、このように<わたし>は存在していたようだ。

生きる

沖ななも『ふたりごころ』人生がつまらなく見えないのである

平林寺の森を右わきに抱えもちひた歩むとき道が黙りこむ(黙る道)

<わたし>はまた、外を歩いている。
孤独である。
されど、「歩む」をたのしんでもおられるのではないか。
きっとたのしんでいる。なにしろ「森」をも「抱えも」てるひとだ。

歌集中、わたしは、次の一首をことに愛している。

はやばやと翳りはじめて山と山の間(あい)はなにやら秘むごと狭し(夏の勢い)

人はなぜここに生きるか万古不易の問題が提出された。
そう「秘むごと狭」いのである、この人生とは。
そして、おそらくは、ご本人はそうと知らずに、たとえばわたくし式守に明快な解答も与え得た。
この「秘む」に接近することだ。

接近

常、そのように生きておいでではないか、沖ななもが。

沖ななもに、そのような<わたし>がある。
わたくし式守にもあったっていいではないか。

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